1.5. オープンソースと共の理念

 このところ、オープンソースのソフトウエアという考え方が、まさに時流に乗った感がある。最近の『ワイアード』誌に発表された記事のなかで、筆者のトマス・ゲーツは、ソフトウエアから始まったオープンソースは、いまや自然科学からリベラル・アーツにいたるすべての学問分野に広がり *1 、アセンブリー・ラインが大量生産に果たしたのと同じ役割を大量イノベーションに対して果たしていると指摘し、「共働化(collaboration)が法人化(corporation)に取って代わる時代に備えよう」と呼びかけている。この見方は、第二次産業革命がもたらしたアセンブリー・ラインと大量生産に対して、それに続く第三次産業革命はオープンソースと大量イノベーションをもたらすとする見方だとも解釈できるが、産業革命という経済革命とは別種の社会革命が続いて起こっているとする見方だとも解釈できる。ゲーツ自身は、これまでの「製造経済」をこれからの「知識経済」と対比しながら、後者の経済でのオープンソースの有用性を強調しているという点では、前者の見方をとっているといえそうだが、私はむしろ後者の見方の方により惹かれる。だが、それについては後であらためて議論することにして、ここでは、オープンソースそれ自体は、「反商業的でも反企業的でもない」ので、このアプローチは「競争と創造性と起業を助長する」というゲーツの見方に、まず賛意を表明しておくことにしよう。

 ゲーツにいわせると、「オープンソース」は、P2P *2 型のオープンな情報通有だけでなく、P2P型の共働的な生産方式でもある。つまり、それは「結果の革命ではなく、共働して作り上げたものを広く通有させるという、方式の革命」なのである。この過程を開放性と共働性という二つの特質の進展過程だと捉えるならば、オープンソースと総称されているさまざまな中間型も含めて考えると、この革命は、図1のように、「開放性と共働性の二つの軸からなる矩形の中を、左下から右上に向かう対角線によって表すことができる」。

[図1:オープンソース化]
(Goetz [二〇〇三]の記述をもとに作図)

 この意味でのオープンソース方式は、すでに古代から存在しているが、それが近年になってにわかに多くの人びとの注目を集め、広く普及し始めたのには、二つの要因があるとゲーツはいう。「強力なイネーブラーとしてのインターネットの勃興と、自由な思考を制約し逼塞させる知的財産の過剰化とがそれだ」というのだ。つまり、知的財産保護の締めつけがあまりにも厳しくなってきたところに、その制約を突破する強力なツールとしてのインターネットが勃興してきたので、人びとはオープンソース方式に飛びつき始めたというわけだ。
 しかし、環境の制約と技術的可能性がオープンソース化の引き金を引いたという見方は、誤りではないにしても少し話が一般的すぎるような気がする。より直接的なオープンソース化の誘因はないのだろうか。
 それについては、国立情報学研究所の佐藤一郎の指摘 *3 と、japan.linux.com八田真之が佐藤に加えた反論(1), (2) *4 とが参考になる。
 佐藤はまず、「オープンソースはそもそも開発したプログラムのソースコードを公開することを意味していたが、最近はインターネット上で公開されたソースプログラムを通じて世界規模で共同開発することを指すことが多くなって」いると述べた上で、このようなオープンソースは、プログラマーの奉仕活動というよりはむしろ利己的な活動として捉える方がよいという。なぜならば、「プログラマーがオープンソースのプロジェクトを始めるまたは参加する[中略]もっとも典型的な動機は簡単にいうと、自分が使いたいプログラムがないので開発したい、ただ一人で全部を作るのはたいへんなので、同じような状況の他のプログラムと一緒に開発して自分の負担を小さくしたいということ」だからである。したがって、「プログラマーが使わないソフトウエアではオープンソースによる開発は成立し難い」。 *5
 そのような観点から、佐藤は――もちろん自分自身はオープンソースにコミットしていると断った上でだが――オープンソースの問題点として、次の四つをあげている。

1.技術的停滞:オープンソースは、作られたプログラムの保守や機能拡張においては有効な手法だが、新規開発では足かせとなる危険性が高い。 2.市場の破壊:既存のソフトウエアがあると開発がしやすいので、オープンソースで開発されるソフトウエアも既存のソフトウエアに近いものになりやすく、結果として商品ソフトウエアの市場を奪っていることも多い。 3.クローズコミュニティ:プロジェクトに参加するプログラマーの能力は一様ではないので、プログラムの改変権は少数の「コアメンバー」にしか認められない場合が多く、しかもコアメンバー内やプロジェクト参加者全体の合議方式も特に決めていないことが多いので、必ずしも民主的なコミュニティとはいえない。 4.知的所有権:プログラマーに悪意がなくても、過去にその開発にたずさわったプログラムと類似したものを作ってしまう結果、知的所有権を侵害する可能性がある。また、関連技術の調査が十分に行われるとも限らないために、将来的な特許紛争の原因となることがある。

 これに対して、八田は、ソフトウエアの開発者としての佐藤が吐露している実感には十分な共感を示しながらも、とくに次の二点で異論を称えている。
 その第一は、佐藤の指摘とは逆に、「保守ほどオープンソース開発者の苦手とするものはない。逆に、妄想を現実化するという意味では新規開発はオープンソースの最も得意な分野ともいえる」という点だ。なにしろプログラマーたちがオープンソースの開発手法を採用する根本的な動機は――そして、そのことについては佐藤も八田も意見はまったく一致しているのだが――利他主義でもなんでもなく、自分たちが「楽をするための努力」 *6 としてはこの方式がとても有効だというところにある。他方、たいがいは「外部からのアクションで始まる」保守は、「自分にとって無意味で、やる気が出ないから」辛いのである。八田はそういった上で、現に佐藤自身が別のところでは、自分自身が開発したプログラムについて、「当方が関知しない質問が非常に多く、これ以上公開を続けることは困難と判断しました」と書いているではないか、と指摘している。
 八田はなぜこの点にこだわるのか。それは「端的にいえば、保守にはお金が欲しいから」であり、「オープンソースが持続可能なプロセスとして続いていくためにはきちんと対価が得られる(可能性がある)ということが極めて重要と思う」からなのだ。
 八田はさらに続ける。通常のソフトウエアにはライセンス料と保守契約の料金とが込みになっているとすれば、オープンソースは少なくともライセンス料はタダなのだから保証の分は金を出して買うのが当然だ。それが常識になると、そこに有償のサービスを付加する可能性がみえてくる。「オープンソースはソフトウエア産業を滅ぼす」という見方は誤解にすぎない。両者は共存共栄の余地がある。オープンソースのプログラマーたちが「相対的に不得意なことを、商売として金を取って専門的にやればいい」のだ。いや、「極言すれば、いわゆるソフトウエア産業はそういう方向でしか生き残れないと筆者は考えている」。私もこれは、非常に重要で意味のある考えだと思う。
 さて、八田の主張の第二は、佐藤によるオープンソースの定義に述べられている「ソースコードの公開」と「ソフトウエア開発モデルの一種」とは、それぞれ別のことだという点だ。先に引用したトマス・ゲーツの言い方を借りれば、共働生産の方式ないしソフトウエアの開発の方式としての「共働性」と、情報通有の方式ないしできあがったソフトウエアの配布や利用の方式としての「開放性」とは、互いに別のこと(でありうる)のである。
 ところで、ソフトウエアの開発に「伽藍型」と「バザール型」という二つの異なった方式がありうることを最初に指摘したのはエリック・レイモンドだった。 *7 レイモンドによれば、伽藍型の開発モデルは、リチャード・ストールマンらのFSF (Free Software Foundation)などが採用している中央集権的なモデルで、「一人のウィザードか魔術師の小集団が、まったく孤立して慎重に組立てあげるべきもので完成するまではベータ版もださない」といったやり方をとる。 *8 他方、八田の言葉を借りれば、「バザール型の開発モデル」としてのオープンソースの眼目は、開発に参加するプログラマーたちの間でソースコードを公開し通有することで、開発過程を自分一人でするよりはずっと楽なものにしようとするところにある。だからその成果物としての開発されたプログラムのソースコードを、世間一般――とりわけ政府や企業――に対して公開する理由は、また別のところにある。八田は、佐藤に対する反論の中ではその理由をとくに明記してはいないが、別の文書 *9 にそれを求めるならば、それはプログラマーたちのコミュニティとその外の世界――エンドユーザーたちや、「中間層」としての政府や企業の世界――との間に、非ゼロサム的なウィン・ウィンの関係を作り上げたいという意図に発しているように思われる。 *10 さらにいえば、とくに企業がオープンソースによる開発のメリットを最大限に享受できるようにするためには、「一切の権利が消滅しているので著作者の権利も存在しない。改変も流通も完全に自由」ないわゆる「パブリックドメイン」よりは、制約を厳しくする必要がある。その制約とは、八田の意見では、著作者の権利を部分的に認めたり、二次的な開発物の流通に関しても元のソフトウエアと同じライセンスの下で配布することを許可しなければならないといった「コピーレフト」的条項を加えたりることで、剽窃者や競争相手が不当に有利にならないようにするためのものである。 単にソースコードが入手できるというだけでなく、プログラムの配布条件も加えられた「オープンソースの定義」については、http://www.opensource.org/docs/definition.html を、八田によるその邦訳については、http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/9803/osd-ja/osd-ja.html を参照されたい。

 ここで、今度は私自身の言葉で、オープンソースをめぐる論点を整理しなおしてみよう。
 オープンソースの基本的な動機が、プログラマーたちのコミュニティの「進化した利己主義」とでもいうべきものにあるとすれば、それはそのコミュニティにとっての共同利益に奉仕するものとなる――つまり「楽になるために努力する」――ことが大前提とされているはずである。そうだとすれば、そのような仕組み (開発方式) は「オープンソース」と呼ぶよりは、コモン(共)の原理に立脚した「コモンソース」と呼ぶ方がよりふさわしいのではないか。後の第四章で見るように、近代社会の進化過程は、国家(公)の領域とそれを律する諸原理の確立に続いて、企業(私)の領域とそれを律する諸原理をそれに補完させ、さらに今日、近代第三の領域および原理としての智業(共)の領域とそれを律する諸原理を追加しつつある。「コモンソース」は、その意味での共の原理の代表的なものだといえよう。
 もっとも「オープンソース」と総称されている諸現象の覆う範囲は、必ずしも「共」の領域だけにとどまるものではなく、「公と共」、あるいは「私と共」、さらに場合によっては「公と私」の、領域間の相互関係にも及んでいるように思われる。しかしその源泉――コモンソースとしての源泉――は、あくまでも新たに台頭してきた共の領域に求めることができるだろう。
 たとえば、まず公の領域自体について考えてみるならば、それこそそこでもっともふさわしいのは「パブリックドメイン」――日本語になおせば「公の領域」そのものになる――の原理だろう。そこでは国家(とその政府)が入手したり開発したりした公共的な財やサービス、あるいはとりわけ知識や情報は、原則として万人に無差別に、ストールマンたちのいう意味で「フリー」に、提供・公開される。これに対し、私の領域の内部では、私有財産権の原理が支配しているために、オープンではなくクローズドが標準とされることはいうまでもないだろう。
 ところで、佐藤は、先に私が言及した論文の中で、ソースコードの公開ないし開示という意味でのオープンソースについて、二つの興味深い例をあげている。その一つは、国が助成した研究開発についてはソースコードの公開が義務づけられているということだ。これは、国と研究者のコミュニティとの間の関係に、つまり私の言い方でいうと「公と共」の相互関係に、かかわって生じていることだと考えていいだろう。公からの助成があったという状況を背景に、公の原理が共の世界におよぼされているといってもよい。
もう一つは、「公共調達するソフトウエアにオープンソースを義務づける動きがある」という問題である。佐藤によれば、「この場合のオープンソースとは守秘義務を結んだ上でソースプログラムの閲覧を求めるものであり、いわゆるオープンソースとは区別して議論すべきである。」たしかにそうだろう。それは、公の側のセキュリティや効率性への考慮から私(つまりソフトウエアの供給企業)に対してなされる要求であって、開発者のコミュニティ内部の事情とは関係がない。つまり、それは「私」の世界におよぼされている「公」の原理――むしろ「公」の側の都合というべきかもしれないが――だということができる。
 また、先に八田が取り上げていた、オープンソースの場合には「パブリックドメインよりも厳しい制約」をつける方が、企業にとってはオープンソースのメリットを享受しやすいという論点は、企業という「私」の世界から、バザール型のオープンソースの開発方式を採用している「共」の世界に対する希望の表明だとみることができるだろう。つまり、それは「共」の世界におよぼされている「私」の原理だということができる。
というわけで、こうしたさまざまなケースを本来の「オープンソース」から区別するためにも、本来の「オープンソース」は、開発の一つの方式としての側面――「共働性」の側面――に注目するかぎり、むしろ「コモンソース」と呼ぶ方がより適切かもしれず、「コモンソース」が「オープンソース」として外部の不特定多数者にたいして公開される側面は、本来の「共」の領域とその外部の領域との関係でなされているということを、念頭においておくのがよさそうだ。
 また、オープンソースのもう一つの特徴としての「開放性」についていうならば、そこには、(1)ソースコードの(一般的な、あるいはソフトウエアの購入者のような特定者への)開放と、(2)開発の成果としてのプログラムそれ自体の開放(無償の提供)という、互いに区別しうる二つの側面が含まれている。後者は、「フリー・ソフトウエア」としての側面だといってもよい。そして成果を「フリー」にする仕方としては、たとえば政府のような公的主体がそれを購入して(あるいはその寄付を受けて)パブリック・ドメインに入れるというやり方もあれば、GPLのような共的な枠組みの下で提供するといった選択肢がありうるだろう。
 そうだとすれば、もっとも狭い意味での「オープンソース」ないし「オープンソース・ソフトウエア」の特徴は、そのソースコードが一般に公開されているという点に求めることができよう。そして広い意味での「オープンソース・ソフトウエア」は、それ以外に、開発の共働性(コモンソース性)と、成果物の開放性(フリー・ソフトウエア性)の二つの特徴をも含んでいるとみることができよう。 *11 しかし、以上三つの特徴は、互いにそれぞれ独立であって、さまざまな組み合わせがありうることに注意しておいてよいだろう。 *12

 以上、この章であげた四つの事例はいずれも、近年、市民(あるいは私のいう智民)のアクティビズムが顕著になり、さまざまな集団が、その実現が望ましいと考えられる目標を自ら設定するばかりか、実現に必要な手段まで自前で開発し、さらに実現自体も自力で、あるいはそれに賛成する多くの人びとと共働して行おうとするようになりつつあることを示している。それはしばしば、既存の間接民主制のシステムをバイパスして行われるが、だからといってそれを直接民主制的な、あるいは直接民主制の樹立をめざす動きないし流れだと解釈するのも適切とはいえないように思われる。しかし、そうした流れは、良くも悪くも、今後世界的にますます勢いを増していくような予感がする。
 ではそれは、近代社会の発展過程の中ではどのような意味をもつものと解釈できるだろうか。この本では以下、それを、近代を超える「ポストモダン」の流れとしてではなく、近代化の成熟局面、つまり最終局面への移行を意味する「ラストモダン」の流れとして、解釈していってみようと思う。 *13
 そのためには、若干迂遠ではあるが、社会変化のパターンを把握するための概念的な枠組みをまず考え、次にそれを近代化過程に適用してみることで、どのような解釈の可能性が浮かび上がってくるかをみてみたい。 *14

*1 : ゲーツは、その例として、生物学のゲノム解析や、NASAの火星探査、プレンティス・ホール社のコンピューター関連書籍の出版、プロジェクト・グーテンベルグのような書籍のデジタル化、さらには法律や宗教の分野や、料理の手引き書の出版などをあげている。

*2 : P2P(ピアツーピア)型のネットワークや共働の方式については、公文[二〇〇一]でかなり詳しく議論してあるので、そちらを参照されたい。

*3 : 佐藤[二〇〇三]。

*4 : 八田[二〇〇三-二]。

*5 : 原文では「プログラマ」と表記されているが、「プログラマー」に統一した。

*6 : 八田はいう。「MLを設置したり、ウェブサイトを整備したりというのは本来面倒くさいことである。ましてやドキュメントを整備したり、共同メンテナを選定したりするのは、めんどくさがりの筆者などにはほとんど悪夢としか思えない。しかし、ある程度の設備さえ用意しておけば、トリビアルな質問等に関してはユーザ間の相互扶助に期待することができるし、開発の負荷は共同メンテナと分け合うことができる。[中略]このように、“楽をするための努力”は、オープンソースの世界では怠ってはならないというのが、筆者や筆者の周辺が、ほとんど痛みを持って学んだことである。」

*7 : レイモンド[一九九九]。

*8 : 前掲書、一〇-一一ページ。しかし、いったん完成したソフトウエアは、ストールマンたちの場合、「フリー・ソフトウエア」として誰でも自由な使用や複製を行うことができる。(http://www.gnu.org/

*9 : 八田[二〇〇三-一]。

*10 : それは、ストールマンの「フリー・ソフトウエア」のイデオロギーとは一味違ったもので、むしろ第五章で紹介するロバート・ライトの「ノンゼロ」の思想に近いように思われる。

*11 : なお、後の第四章では、「リソース(資源)」という言葉を使って、「オープン・リソース」と「コモン・リソース」を区別するが、その場合の「リソース」とは、ソフトウエアの場合でいえば、ここでいう「ソースコード」と「成果物」の両方を含むより広義の概念である。

*12 : 「オープンソース」を政策の手段とみるならば、それは一つの手段ではなく、互いに独立な三つの手段の束だということができる。したがって、政策目標に応じたさまざまな使い分けも可能になる。

*13 : 後にみるように、私は、社会的事物の進化過程を、基本的に、「出現」、「突破」、「成熟」の三つの局面に分けて捉える立場をとっている。近代化の成熟局面を「ラストモダン」とも呼ぶのは、そうした立場からのことである。ただし、後にみるように、社会的事物の多くは、成熟局面を経過した後でも消滅してしまうことは少なく、その後もさらに長期間にわたって、「定着」や「衰退」の局面を経過していく。その意味では、広義の「ラストモダン」には、成熟局面以降のすべての局面が含まれる、ということにしておきたい。

*14 : 以下第二章での議論は、公文[二〇〇一]の試みをもとに、さらに修正を加え発展させたものである。

目次

第一章:自前主義と創発する革命
1.1. ディーン・フォー・アメリカ
1.2. イトーの唱える創発民主制
1.3. 住民プロデューサー
1.4. J-Kids大賞
1.5. オープンソースと共の理念

第二章:社会変化を捉える眼
2.1.1. 社会変化のS字波
2.1.2. S字波に関する注記:
2.2.0. 近代化過程へのS字波的視点の適用
2.2.1. 深度0の眼:諸文明の継起
2.2.2. 深度1の眼:近代化の三局面
2.3.3. 深度2の眼:近代化の三局面のそれぞれを対象とする分析
2.4.4. より高深度の眼:深度3および深度4の眼
2.3. 日本の西欧型近代化

第三章:共進化する智民たちとコンピューター
3.0. (前章における「S字波のレンズ」を通じて社会変化過程を見る眼についての整理)
3.1.1. 知識の生産様式の変化と「智民」の出現:個別科学(ディシプリン)からトランスディシプリナリーな知識へ
3.1.2. 最初の智民としてのテクノクラート(スーツ)
3.1.3. ハッカーズ:対抗智民
3.1.4. ギークス:智民の進化
3.1.5. ギークスから子供たち(キッズ)へ
3.1.6. 新型の社会集団の誕生:「ネットワーク」とNGO-NPO-CSO
3.1.7. 社会システムとしてのネットワーク
3.1.8. スマートモブズ:第一次情報革命の「出現の成熟」局面での智民
3.2.0. コンピューターとネットワークのあり方の変化
3.2.1. モバイルでユビキタスな「解放システム」
3.2.2.0. ウェアラブル・コンピューターと知覚するモノたち(成熟局面でのコンピューター(とそのネットワーク)の主要な特徴)
3.2.2.1. (再)身体化
3.2.2.2. 環境化
3.2.2.3. リアル化
3.3.0. 戦後日本の社会変化
3.3.1. 1945-1990:形成局面:戦後民主主義者→新左翼→新人類
3.3.2. 1975-2020 出現局面:狭義オタク→広義オタク→ネッター
3.2.3. 2005-2050 突破局面:スマートモブズ(?)

第四章:共の原理と領域
4.1.0. 近代社会の三つの原理と領域:公・私・共
4.1.1. 通時的視点と共時的視点
4.1.2. 公の原理と領域
4.1.3. 私の原理と領域
4.1.4. 共の原理と領域
4.2.0. 可視社会の中での監視とプライバシー
4.2.1. 監視とその二つの顔
4.2.2.プライバシーを護る仲介者
4.3.1. コモンズと共貨:「コモン・リソース」と「フリー・リソース」
4.3.2. ハーディン対オストローム
4.3.3. ローカル通貨
4.3.4. 共貨の基本的特質
4.3.5. 共貨への期待と障害

第五章:情報社会の新しい秩序
5.1.0. 創発(イマージェンス)と同調(シンク)
5.1.1. 創発(イマージェンス)
5.1.2. 同調(シンク)
5.2. ノンゼロ性と協力
5.3.0. ベキ法則
5.3.1. 貢献と報酬のベキ分布
5.3.2. 社会的ネットワークとベキ法則
5.3.3. ベキ法則への対処
5.3.4. 物理的制約下の正規分布から情報自由下のベキ分布へ
5.4. おわりに
5.5. 付記 情報社会の運営原則

巻末
あとがき

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