4.3.2. ハーディン対オストローム

 一九七〇年代の半ば、どこまでも続くと思われていた右肩上がりの高度成長があっけなく終焉し、石油危機に象徴される「資源有限時代」の到来が叫ばれ始めたころ、思想的痛棒を喰らった思いをさせられたのが、アメリカの生物学者ガレット・ハーディンによる議論 *1 であった。以来、ハーディンの呪縛を私がようやく逃れられるまでには、四半世紀以上の時間がかかった。 *2

 ハーディンの思想の中心にあるのは、「コモンズ(共有地)の悲劇」と「救命艇の倫理」という観念である。 *3 ハーディンにとってのコモンズは、レッシグのそれとは少し違っている。すなわち、それは第一に、(制度的にはともかく)物的には、たとえば共同放牧地のように、複数の主体が同時にアクセス(使用)しうるリソース(というかより正確にはリソースの供給源)である。第二に、それに対するアクセスには強度もしくは密度というものがあって、それは、アクセスしている主体の数に、個々の主体によるアクセスの強度もしくは密度を掛け合わせたものの総量で表される。第三に、コモンズがそのアクセス主体に持続的に提供してくれる便益(つまりリソース源からえられるリソースそのもの)、たとえば放牧地からえられる牧草、の大きさないし量には、ある上限――「扶養力(carrying capacity)」――があって、アクセスの総量がそれを超えると、次期以降の扶養力は劣化してしまう。つまり、アクセスの総量があるレベルを超えると、アクセスないし使用には「競合性」が発生してしまう。つまり、それ以上リソースが入手できなくなる(あるいはリソースの入手コストがそれからえられる便益を上回ってしまう)ばかりか、リソース源そのものが劣化してしまう。過放牧や乱獲、乱伐が行われると、牧草地や漁場や山林は荒廃してしまうのである。レッシグとは違って、ハーディンはこの点をとくに重視している。生物学者のハーディンにとっては、放牧地や漁場、山林や農地やのような生存のための「環境」こそが、「コモンズ」の典型なのである。 *4
 しかし、コモンズの扶養力や生産性 *5 は、過剰なアクセスだけでなく、気候や海流の変動のような外的条件の変化によっても影響を受ける。したがって、特定のコモンズに対するアクセスの総量をある最適水準に規制しているからといって、常に一定の産出ないし便益がそこから保証されるとはかぎらない。産出の大きさは、ある「ゆらぎ」をもって変動しうるのである。
 ハーディンは、コモンズがもつこの第二の特徴を、いつ暴風に見舞われるかもしれない「救命艇」のメタファーで表現した。船が難破して乗客や乗組員が救命艇に分乗している「救命艇状況」を想像すれば容易に理解できるように、コモンズの扶養力や生産性に多少の変動があっても致命的な影響を受けないようにするためには、できる限り大きな「安全因子」を残しておく必要がある。すなわち、救命艇の乗員収容力(コモンズの規模)は、それへの乗り込み(アクセス)を許されている乗員(アクセス主体)の数や、救命艇の上で許される各人の生活水準(アクセスのレベル)に比べて、十分に大きいことが望ましい。あるいは、乗り込み(アクセス)を許す乗員(アクセス主体)の数や活動のレベルは、十分に小さくしておくことが望ましい。現在余裕があるからという理由で、メンバーの数を増やしたり活動のレベルを上げることを許したりすべきではない。それは、「安全因子」が減少するという望ましくない結果をもたらすからである。これがハーディンのいう「救命艇の倫理」に他ならない。この倫理に従えば、多くの人を救い入れて安全因子を減らした救命艇や、波間で溺れかけている人々は、溺れ死ぬにまかせておくしかないのである。
 このような物理的特性をもつコモンズを一つの社会ないしコミュニティが有効に利用しようとすれば、なによりもまず、なんらかの形でアクセスの総量を規制することが、必要不可欠である。しかし、コモンズへのアクセスのレベルが各人の自由に委ねられているとすれば、コミュニティの個々のメンバーの立場からいえば、たとえコモンズの扶養力や生産性が低下しようと、それにアクセスすることが自分にとって有利であり続ける限り、自分からアクセスを制限することはないだろう。自分一人が制限してみたところで、他人がその分アクセスを増やせば、自分が損をする結果になる。そこにはいわゆる「囚人のジレンマ」が働き、コモンズは過剰にアクセスされ、荒廃してしまうだろう。これがハーディンのいう「コモンズの悲劇」にほかならない。
 ハーディンによれば、この悲劇を避けるためには、コモンズを私有化するか公有化するかの、二つの制度的選択肢が考えられる。あるいは、その二つの選択肢しかない。ハーディンばかりでなく、この問題に取り組んだ理論家や政策立案者の多くも、そのような考え方をした。そればかりか、そこには「唯一の正解」があるだけだと思い込む傾向が強かった。 *6
 二つの選択肢のうちの私有化には、あきらかな欠陥がある。 *7 私有化すればたしかに総量規制が所有者自身の利益のために行われるだろう。だが、一人の個人によるコモンズの私有化はその独占を意味し、他のメンバーのアクセスを排除する結果となるので、社会的には望ましくない。 *8 さりとて、コモンズを細分して各メンバーに私有させると、部分ごとに扶養力や生産性が異なるという配分上の不公平が発生したり、規模が小さくなりすぎて十分な「安全因子」が確保できなかったりする恐れがある。 *9
 そうだとすれば、残る唯一の解決は、コモンズの公有化である。つまり、対内的にはコモンズを公の領域に移管し、公の原理にしたがって、十分な安全因子を確保しつつ、各人のアクセスのレベルを公平無私な立場から決定する。同時に、対外的にはコモンズを閉じてしまい、部外者への開放はもちろん、外部との協力や取引もいっさい許さないことにするのである。 *10 ハーディンの考えでは、外部との協力や取引は、一見したところでは双方に有利に見える。どちらも、既存のメンバーの数や活動のレベルを拡大できるからである。しかし、それは近視眼的な判断にすぎない。拡大は、長期的には安全因子の縮減を引き起こす。したがって、各コミュニティは完全な自立を旨とすべきであって、支援や協力は、それがいかに人道的、良心的に思われようと、すべきではないのである。
 ハーディンの議論に初めて接した私は、大きな衝撃を受けた。彼の議論は、それこそ「人道的」にはとうてい受け入れがたかった。しかし、その論理構成はいかにもしっかりしていて隙がなく、容易に崩せるとも思えなかった。それは、「タテマエ」としてはともかく、「ホンネ」のレベルでは、とりわけ「公の原理」の立場からすれば、受け入れる以外にない真理なのではないかと思われたのである。
 なるほど当時すでに経済学者のR・G・ウィルキンソンは、『経済発展の生態学』と題された著書 *11 の中で、近代社会はいざしらず、いわゆる伝統的社会にあっては、人口や欲求の総量を抑制するためのさまざまな文化的仕組みが存在し、各構成員の行動様式の中に需要の制御機構がいわば自動的に組み込まれていたと主張していた。それは私も承知してはいたのだが、ハーディンの強烈な主張の前では、ウィルキンソンの議論は説得力に欠けるように思われたのである。私がハーディンに対してなしえた唯一の反論というか議論の拡張 *12 は、「倫理の内容は状況次第」というものにとどまった。すなわち私は、コミュニティを取り巻く生存環境の状態を、生存しやすいものから順に、

1)見えざる手状況:私的、個別的な競争が全体にとっての善を生み出す状況

2)囚人のジレンマ状況:お互いの協力に成功すれば、個別に競争するよりは良い結果をもたらしうる状況

3)救命艇状況:全員を救うことはできないが、一部の「強者」だけなら自立(孤立)して生き残れる可能性のある状況

4)共倒れ状況:孤立しても協力しても生き残れず、一部だけでも生き残るためには全体の規模を強制的に縮小せざるをえない状況

 の四つに区分した。そして、1)では「競争」の、2)では「協力」の、3)では「自立」の倫理がそれぞれ有力性を発揮しうるが、4)となると全体を集権化した上で一部を切り捨てるという「犠牲」の倫理、おそらくはもっとも極端な公の倫理、に頼るしかあるまいと考えた。しかも、人口の爆発と資源の枯渇、そして環境の汚染がとどまるところを知らずに進行していた一九七〇年代の世界では、現実は「救命艇状況」からさらに悪化して「共倒れ状況」に刻々と近づきつつあるように見えた。だが、実際問題としては「犠牲」になることを要求もしくは強制される立場の人々がそれを唯々諾々と受け入れるとは考えられず、未来の世界は結果的に共倒れを引き起こすような深刻な紛争に満ち満ちた世界にならざるをえないように思われたのである。
 その後四半世紀が経過する間に、現実の世界ではソ連の社会主義体制が崩壊して冷戦が終焉したものの、その後には、「私」の原理と領域が不釣り合いに拡大した「グローバリゼーション」の時代が到来した。そして世界は、少なくともある一面からみれば、強力な救命艇に乗り込んでいる近代文明世界と、波間に投げ出されて近くの救命艇に共倒れ覚悟の自爆型テロ攻撃をかけるしか望みがなくなったそれ以外の世界とに、二分されつつあるかにみえる。しかし、また別の面からみれば、近代文明の情報化は、「共の原理」に立脚した新たな共働の可能性を開きつつあるようにもみえる。その中で、ハーディンの議論に正面から対決しうる新しい理論も育ちつつあるようだ。
 その中核をなしているのが、エリノア・オストロームとその協力者たちが、一九八〇年代以来展開してきたコモン・プール・リソース(CPR=Common-pool Resources)および共有財産制度(CPI=Common-Property Institutions)の理論 *13 である。そこで、リドレー[二〇〇〇]やラインゴールド[二〇〇三]によるその解説も参考にしながら、オストローム理論のエッセンスをまとめてみよう。
 オストロームはまず、リソースを供給する「リソース・システム」――たとえば漁場、放牧地、地下水、潅漑水路、橋、駐車場、大型コンピューター、河川、湖沼、海洋など――と、一定期間内にシステムから供給される「リソース・ユニット」――たとえば捕った魚のトン数や汲み出した水の立米数、家畜が食べた飼い葉量、橋の通行者、駐車されているスペース、大型コンピューターのCPUの利用時間、河川が浄化する生活廃水量など――を区別する。前者は「ストック」で、そこから「フロー」としてのリソースが流れだしてくるというイメージである。流れだしてくるリソースそれ自体は、私的財であって共同使用はできないが、リソース・システム――私ならむしろ「リソース源」と呼 *14 ――には同時にあるいは順番に複数の主体がアクセスして、そこからリソースを「取得」できる。彼らは、リソースの「取得者」と呼ばれる。他方、リソース・システムそのものの構築の決定や、そのための費用の負担は「提供者」によって、実際のシステムの構築作業は「生産者」によって行われる。これら三者は、同一の主体であってもよいが、異なっていてもよい。いずれにせよ、それらの異なる役割は、概念的には区別できる。
 その上でオストロームは、「コモン・プール・リソース(CPR)」のことを「潜在的な受益者がその使用から便益を受けるのを排除することが(不可能ではないにしても)高くつくほど十分に大きなシステム」だと定義する。つまり、CPRとは、リソースそれ自体ではなく、共同利用が可能なリソース・システム(リソース源)の一種なのである。 *15 他方、この意味でのCPRには、

(1)規模の小さなものや大きなもの、
(2)人為的に作られたものや河川や漁場のように自然に存在するもの、
(3)その継続的な更新が可能なものや不可能なもの、
(4)その使用が外部に負の副作用を引き起こすものとそうでないもの、
(5)それへのアクセスがだれに対してもオープンなものや原則としては一部の人々だけに限定されているもの、

 などさまざまな種類のものがあるが、いずれも、

(1)使用されたリソースの分だけ、システムが当面供給しうるリソース量は減少する、 *16
(2)そこから供給されるリソースの使用者たちは、リソースを自分だけがたくさん取得したり、リソース・システムの構築や管理のための費用を負担しないですませたりしようとする「ただ乗り」の誘惑に常に駆られる、

 という二つの特徴を通有している。CPRは、この第一の特徴によって「公共財」とは区別される一方、第二の特徴は公共財と共通している。 *17
 このような概念的枠組みを前提としたオストロームたちの多年にわたる研究が明らかにしつつある論点のいくつかを、以下列挙してみよう。

1.国家による監視と規制は、CPRの荒廃を防ぐための唯一の正解であるどころか、それとはほど遠い。国家がそれぞれのCPRの扶養力やそれへのアクセスを許されているメンバーがとっている現実の行動について、予算や時間の制約の中で正確な情報に立脚した的確な監視や規制の措置が講じられると期待してよい理由は少ない。他方、CPRがいったん公有化されると、人々が監視や規制の目をくぐろうとする誘惑は、むしろ増大する。それまでは自分たちの共有資源だったCPRを国家が一方的に公有化してしまうことは、それ自体不当な行為として人々の反発を買いかねない。それに、国家による監視や規制は、抜け穴だらけだったり、誤った情報にもとづく不当なものであったり、役人の賄賂や買収の余地が大きかったりするものである場合も多い。  *18  

2.CPRの管理方式としての「私有化」と「公有化」は、二つの極端な方式であって、いずれもほとんどの場合、単独で採用しうる有効な管理方式にはなりえない。 *19 CPR自体も、その種類や規模は極めて多様であって、単一の方式がすべてのCPRに妥当する有効な方式になりうるとは考えられない。現実には、その中間の多様な方式があって、成功しているものも失敗したものもあるが、近代西欧以前のさまざまな社会には、中間的な方式で長期間にわたって有効に持続してきた事例が、日本の森林、スイスの牧場、スペインやフィリピンの潅漑施設など、数多くみられる。 *20

3.それらに共通する特徴は、CPRにアクセスする権利をもっているグループ、あるいはコミュニティのメンバーが、アクセスに関する規範や未来への配慮の度合い(割引率)を通有すると同時に、相互の合意によってその管理の具体的なルールを定め、それにもとづく相互の監視や規制、あるいは制裁を――場合によっては外部のエージェントにその一部を委任することもあるが――みずから行っていることである。   *21

4.近代化の進展と共に各種のCPRやそれらを共同管理するための共有財産制度(CPI)は消滅していくという予想は、誤っている。逆に、誤った極端な管理方式がそのいっそうの劣化をもたらした既存のCPRを復活させる必要が痛感されるようになっている。さらに、環境・公害問題の深刻化や科学技術の発達で明らかになってきたように、在来型の比較的小規模なCPRだけでなく、海洋や大気圏や遺伝子プールなどに、ますます多種多様でしかも大規模なCPRが新たに出現あるいは発見され、それらを有効に管理するための多様な中間的方式を考案し実施に移す必要もますます増大している。

*1 : ハーディン[一九七五]、とりわけ、その巻末に収録されている二つの論文(「共有地の悲劇」および「救命艇上に生きる」)を参照。前者はScience誌の第一六二号(一九六八年)に、後者はBioscience誌の第二四巻十号(一九七四年)に、それぞれ発表されて注目を集めた論文である。後者との関連では、ハーディン[一九八三]も興味深い。ただし、オストロームによれば、「コモンズ(共有地)の悲劇」は、ハーディンが初めて発見した現象というわけではなく、古くはアリストテレス以来、多くの人々によって、とりわけハーディン論文が書かれた一四年前に出版された漁業経済学者のスコット・ゴードンの著書の中で、指摘されていた社会問題である。(Ostrom[一九九〇]、二-三ページの解説と、そこに引用されているゴードンの文章を参照。同じ文章は、リドレー[二〇〇〇]、三一一ページにも引用されている。)

*2 : そのきっかけを与えてくれたのがラインゴールド[二〇〇三]だった。

*3 : それにもう一つ「原野の経済学」を加えることもできる。ハーディンの考えでは、人間の手が加わっていない原野は、貴重な生態学的資源なので、そこを訪れることができるのは特別な資格をもった人に限定すべきであり、彼らが原野にいる間は、どのような危険や困難に出くわそうと、外部の支援をいっさい求めてはならない。すべて自力で対処しなくてはならないのである(Hardin[一九六九])

*4 : あるリソース源(とりわけ生物種にとっての生活環境のような)がもっている「扶養力」というのは生態学で用いられる概念だが、経済学的にいうと、それだけではなく、ある同一時点(ないし期間)での投入(たとえば漁場に入る漁師の数)と産出(漁獲高)の間にも、“収穫逓減” ないし“混雑”関係があって、投入があるレベルを超えて大きくなるとコモンズからえられる産出あるいは便益の限界値や平均値は低下するという見方をとることもできる。後者の側面のことは、コモンズの「生産性」と呼んでおこう。

*5 : コモンズの「生産性」については、先の注で説明した。

*6 : Ostrom[一九九〇]には、このような過度に単純化された議論やもっぱらメタファーでものを考えようとする論者に対する厳しい批判と、自分たち研究者の無知に対する深い反省とが、またそれと同時に直接当事者たちの自己組織力や自己統治力への新たな信頼がみられる(同書第一章、二一三-二八ページ)。

*7 : たとえば、米国のメイン州の入り組んだ岩場にあるロブスターの漁場は、漁師組合が共同で所有しているが、その理由は「ロブスターの群れは季節によって移動するので、個人が所有できる程度の狭い区画では確実にロブスターを収穫することが難しいからである。そのかわりに、組合のメンバーは季節が変わるたびに、二五〇平方キロメートルほどあるなわばり内でわなを移動させることができるのである」(リドレー[二〇〇〇]、三〇九ページ)。

*8 : リドレーの考えでは「個人財産あるいは少人数グループによる共同所有は、共有地に起こりうる悲劇を回避するための合理的反応ではあるが、本能的な反応ではない。それとは逆に、どのような形式にせよ誰かがものを独占してしまうことに対して人間は本能的に強い反発を示す。[中略]独占はタブー、分配は義務なのである」(リドレー[二〇〇〇]、三二七ページ)。

*9 : 中世から近世にかけてヨーロッパの一部で採用されていたいわゆる「開放耕地制度」の下で、各農民の持ち分に属する耕地片を複雑に混在させていた「混在地制」は、作業効率をある程度犠牲にしてもこのような不均等性や不確実に対処しようとする、制度的な工夫だったといえよう。

*10 : たとえば、一国の国土を一個の巨大なコモンズと考えるならば、「移民」の容認や「対外援助」は、その安全因子の減少をもたらしかねない「協力」の例となる。

*11 : ウィルキンソン[一九七五]。

*12 : 公文[一九七八-二]、第三章および第四章。

*13 : Ostrom[一九九〇]やDolšak/Ostrom[二〇〇三]。

*14 : びたいがそうすれば、「リソース源」としてのCPRを運営するための仕組みの一つとしてCPIがあるという言い方が、理解しやすくなるだろう。

*15 : Ostrom[一九九〇]、三〇ページ。

*16 : とはいえ、灌漑用水のように、いったん上流で取水された水が、再び下流に戻されて再利用されるというケースも考えられる(Ostrom[一九九〇]、三三-三四ページ)。

*17 : Dolšak/Ostrom[二〇〇三]、七-八ページ。なお、CPRの特徴をこのように捉えて、「コモンズ」という言葉をもっぱらそれがもたらす「リソース」の意味で使うことにするならば、レッシグのいう「イノベーションのコモンズ」としての知識や、ワーバックのいう「スーパーコモンズ」としての周波数(Werbach[二〇〇四])などは、CPR(としてのコモンズ)というよりは、「公共財」とみなす方がより適切なように思われる。他方、インターネットのような「リソース・システム」は、まさにオストロームのいう意味でのCPRの典型的なものの一つとみなしていいだろう。

*18 : かつての社会主義体制のもとでは、人々が国家のものを盗んだり隠し持ったりしているのは、ごく当然のこととみなされていた。またインドでは英国政府が森林への「立ち入り、伐採、放牧、山焼きを禁止した。村人たちはそれに反抗して徐々に敵意をむきだしにするようになっていった。人々ははじめて森に対して無責任な振る舞いをし始めたのである。なぜなら、森はもう彼らのものではなくなっていたからだ。共有地の悲劇が始まったのである」(リドレー[二〇〇〇]、三一六ページ)。同様な悲劇は、野生動物が国有化されたアフリカ諸国や、政府が公的な潅漑システムを持ち込んだアジアの農村でも起こった。

*19 : 実際、「市場」もほとんどの場合、ルールの強制者や審判その他の面での国家の補完的な機能があるおかげで、より有効に機能している。同じことは、「政府」についてもいえる。

*20 : Ostrom[一九九〇]、第三~第四章や、リドレー[二〇〇〇]、第十二章に、さまざまな事例があげられている。

*21 : Ostrom[一九九〇]、第一章には、最近の事例として、さまざまな試行錯誤をへて一九七〇年代の初めに持続可能なCPRとして成立した、トルコのアラニヤの漁業組合のケースが紹介されている。

目次

第一章:自前主義と創発する革命
1.1. ディーン・フォー・アメリカ
1.2. イトーの唱える創発民主制
1.3. 住民プロデューサー
1.4. J-Kids大賞
1.5. オープンソースと共の理念

第二章:社会変化を捉える眼
2.1.1. 社会変化のS字波
2.1.2. S字波に関する注記:
2.2.0. 近代化過程へのS字波的視点の適用
2.2.1. 深度0の眼:諸文明の継起
2.2.2. 深度1の眼:近代化の三局面
2.3.3. 深度2の眼:近代化の三局面のそれぞれを対象とする分析
2.4.4. より高深度の眼:深度3および深度4の眼
2.3. 日本の西欧型近代化

第三章:共進化する智民たちとコンピューター
3.0. (前章における「S字波のレンズ」を通じて社会変化過程を見る眼についての整理)
3.1.1. 知識の生産様式の変化と「智民」の出現:個別科学(ディシプリン)からトランスディシプリナリーな知識へ
3.1.2. 最初の智民としてのテクノクラート(スーツ)
3.1.3. ハッカーズ:対抗智民
3.1.4. ギークス:智民の進化
3.1.5. ギークスから子供たち(キッズ)へ
3.1.6. 新型の社会集団の誕生:「ネットワーク」とNGO-NPO-CSO
3.1.7. 社会システムとしてのネットワーク
3.1.8. スマートモブズ:第一次情報革命の「出現の成熟」局面での智民
3.2.0. コンピューターとネットワークのあり方の変化
3.2.1. モバイルでユビキタスな「解放システム」
3.2.2.0. ウェアラブル・コンピューターと知覚するモノたち(成熟局面でのコンピューター(とそのネットワーク)の主要な特徴)
3.2.2.1. (再)身体化
3.2.2.2. 環境化
3.2.2.3. リアル化
3.3.0. 戦後日本の社会変化
3.3.1. 1945-1990:形成局面:戦後民主主義者→新左翼→新人類
3.3.2. 1975-2020 出現局面:狭義オタク→広義オタク→ネッター
3.2.3. 2005-2050 突破局面:スマートモブズ(?)

第四章:共の原理と領域
4.1.0. 近代社会の三つの原理と領域:公・私・共
4.1.1. 通時的視点と共時的視点
4.1.2. 公の原理と領域
4.1.3. 私の原理と領域
4.1.4. 共の原理と領域
4.2.0. 可視社会の中での監視とプライバシー
4.2.1. 監視とその二つの顔
4.2.2.プライバシーを護る仲介者
4.3.1. コモンズと共貨:「コモン・リソース」と「フリー・リソース」
4.3.2. ハーディン対オストローム
4.3.3. ローカル通貨
4.3.4. 共貨の基本的特質
4.3.5. 共貨への期待と障害

第五章:情報社会の新しい秩序
5.1.0. 創発(イマージェンス)と同調(シンク)
5.1.1. 創発(イマージェンス)
5.1.2. 同調(シンク)
5.2. ノンゼロ性と協力
5.3.0. ベキ法則
5.3.1. 貢献と報酬のベキ分布
5.3.2. 社会的ネットワークとベキ法則
5.3.3. ベキ法則への対処
5.3.4. 物理的制約下の正規分布から情報自由下のベキ分布へ
5.4. おわりに
5.5. 付記 情報社会の運営原則

巻末
あとがき

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