ここまでの議論を要約すれば、近代化とは、主体(組織や個人)の目標達成のための「パワー」の、不断の増進(エンパワーメント)過程を意味する。そして、この近代化過程は、大きく見ると、武力(強制・脅迫力)が集中的に増進する国家化局面から、経済力(取引・搾取力)が集中的に増進する産業化局面を経て、知力(説得・誘導力)が集中的に増進する情報化局面に入ってきている。その間に、近代主権国家は、「公の原理」に加えて「私の原理」を、みずからの正統的な構成原理としてまず取り込んだ。そして情報化局面に入った今日では、さらにもう一つの原理としての「共の原理」の重要性が自覚され始め、それをいかに正統化しうるかという課題が、近代文明が成熟に向かう上では避けて通れない挑戦となっている。
それでは、近代化する社会の中でそうした新たなパワーの増進を主として享受してきたのはどのような主体だったのだろうか。明らかに、これまでの近代化過程にあっては、武力の増進(および独占)の中核となったのは主権国家だった。経済力の増進(および独占)の中核となったのは産業企業だった。つまり、増進したパワーのほとんどは、個人よりは組織の手中に入っていたのである。
では、近代的な個人はパワーの増進とは無関係だったのか。もちろんそうではない。しかし、少なくとも近代化のそれぞれの局面の初期にあっては、個人間へのパワーの配分には顕著な不均等がみられ、いわゆる「階級分裂」が発生した。国家化の初期局面では、主権国家の「臣民」たちは、軍人・官僚貴族と平民階級に分かれた。産業化の初期局面では、産業社会の構成員たちは、有産階級(ブルジョワジー)と無産階級(プロレタリアート)階級に分かれた。つまり、近代化の初期には、一般大衆は、前近代の農奴や徒弟に較べると多くのパワーを入手できるようになったかもしれないにせよ、独立の農民・領主や商人・親方階級に較べると、自由にしうるパワーはむしろ減少したといえそうである。
にもかかわらず、その後、軍事社会の平民たちは国民軍に組織され、強力な武器を装備することによって、集団としての軍事力では旧体制下の国王の軍隊を圧倒した。彼らはさらに、「民主主義革命」を経て、近代国家の「主権者」としての政治的地位すら獲得するとともに、主権国家が増進・発揚する国威とその成果としての国民的な誇りや安全を享受するようになっていった。同様に、産業社会の無産階級は、産業企業の賃労働者に組織され、資本集約的な機械設備と共に働くことによって、集団としては旧来のギルドの親方たちや大商人の経済力を圧倒した。彼らはさらに、「産業民主化」の過程をへて、企業の従業員(日本流にいえば「社員」)や株主としての地位すら獲得するとともに、高水準の所得や消費生活を享受しうるようになっていった。
*1
ところで、情報化過程をめぐるこれまでの議論、とりわけ社会的ネットワーク論やネティズン論では、近代個人主義思想の流れを汲んで、情報化がもたらす知力の増進は今度こそ「強い個人」の手にまず帰属し、彼らを基盤とする直接民主主義的な政治体制や全員参加型のボランティア的な経済活動や社会活動を通じて平等主義的なネットワーク社会がたちまち形成される、と期待する傾向が強かった。
しかし、本当にそのように断定していいものだろうか。先にみたようにラインゴールド[二〇〇三]は、現在世界各地に大量に出現しつつあるモバイル族のことを、「スマートモブズ」という言葉で特徴づけている。つまり、彼らは一面においては、モバイルでパーベイシブな情報機器を巧みに使用し、そのさまざまな作用――善悪両面での――を受けたり及ぼしあったりする環境の中で生活するようになったという意味では、前時代の人びとよりも「スマート」である。つまりその意味では、彼らはある種の高い知力の持ち主、すなわち「智民」である。ところが、彼らは同時に群衆(モブ)でもあって、とくに高度な学歴や知性や自律・自立力をもっているわけではなく、「群がり(スウォーム)」をなして行動する存在であり、「ケータイをもったサル」などと揶揄されたりもする。
*2
つまり、彼らは個々人としては既存の規律/知識(ディシプリン)をしっかりと身につけた科学技術者や知的専門職に較べると、問題にならないほど低い知力しか――少なくとも平均的には――持ち合わせていないというべきだろう。
*3
彼らはまた、東[二〇〇一]が指摘する意味での「動物化」した存在でもあって、他人に抜きんでようとする社会的「欲望」は概していえばそれほど強くない。
*4
そればかりか、彼らは、これまでの近代文明が理念像としてきた、右顧左眄することなく自らの目標を追求する「強い個人」ないし「合理的エージェント」というよりは、他人の意見や行動に影響されやすい「弱い個人」ないし「烏合の衆」たちでもある。
それにもかかわらず私は、彼らこそが「共の原理」の担い手として、さまざまな「協力の技術」や「関係性の技術」を発達させ利用するなかで、自分たちの共同目標を実現しうるような、「群がりの知性(スウォーム・インテリジェンス)」と「集合行為」を通じた自己組織能力とをもった存在だと考える。彼らの思想や行動には、クレイトン・クリステンセン
*5
のいまやすっかり人口に膾炙した表現を借りれば、「破壊的イノベーション」が生み出した「破壊的技術」としての性格が強い。「破壊的技術」は、既存の市場のローエンドにいる人々の需要に応えようとする、通常は安価で低機能の製品――たとえばコンピューターの大型機に対するパソコン、ハードディスクに対するフラッシュ・メモリーなど――で、ハイエンドの利幅の多い製品市場を制している優良企業は最初はその出現を歯牙にもかけない。しかしハイエンドの製品が優良企業の不断の技術開発努力によってますます高機能化していくと、ユーザーにとっては過剰機能になってしまう。その一方で、ローエンドの製品にも急激な改善が行われていくと、ある時点でそれはハイエンドのユーザーのニーズをも十分満たせるレベルのものとなり、ユーザーはなだれを打ってそちらに向かう。その時点で事態の急変に気づいた優良企業が既存の路線を変更しようとしてももう遅すぎる。こうして昨日までの優良企業が突然没落してしまうのである。
スマートモブズにたいしてもそのような社会的ダイナミックスが働くとすれば、最初のうちは、彼らの価値観や行動様式は、既存の組織や個人のそれにくらべると、ばかばかしいとか幼稚だとか取るに足りないといった否定的な評価ばかり、もっぱら受けるかもしれない。しかし、いずれはその中から、既存の思想や行動の基盤を堀り崩し、それに取って代わるような新しい動きやそれが生み出す新しい秩序が、事前に計画されてというよりは、いつのまにか「創発」されてくるのではないだろうか。
気鋭の評論家スティーブン・ジョンソンは、多くの話題を投げた著書『創発(イマージェンス)』 *1 の中で、粘菌やアリ、人間の脳、大都市、ソフトウエアなどの例をあげながら、特別な計画者・管理者がいないのに、「群れ」や「群がり(スゥオーム)」をなしているそれ自体としては相対的に低能力の個々の主体(エージェント)が、相互にあるいは環境との間に示す単純でローカルな規則に従う行動の中から、複雑でグローバルな秩序(場合によっては「超個体」の形成とでも呼びたくなるような秩序)や高度な知性 *2 (場合によっては「集合知性」あるいは「超精神(スーパーマインド)」などと呼びたくなるような知性)が、「ボトム・アップに自己組織化」されてくる、つまり「創発」されてくると論じている。 *3 そのようにして、アリは群落(コロニー)を創り、都市生活者は近隣住区を創り、アマゾンの単純なパターン認識ソフトウエアは新刊書推薦システムを創るのである。 *4 それらの場合には、それを観察している第三者には、複雑でグローバルな秩序を示す全体――あるいはその中枢部分――が、それ自体一個の合理的な計画や行為の主体として、そのような秩序の発現をあたかも事前に計画したり時々刻々管理したりしているように見えるかもしれないが、そういうことはないのが「創発」的事象の特性なのである。 *5 もちろん、個々のエージェントはそのようなグローバルな秩序について、事後的にさえなんの理解をももっていないことが多い。それを事前に計画しているというにいたっては、それこそ論外である。 *6
たとえば、アリの場合は、個々の働きアリはお互いの出すフェロモンの香りとそれに遭遇する頻度に反応して行動のパターンを変えることで、食糧漁りや幼虫の世話、巣の清掃や修復、死体の始末などの分業を整然と行う。群落(コロニー)のなかで、ごみ捨て場は居住区域からはもっとも遠い場所に設けられ、さらに死体置き場は居住区域とごみ捨て場の双方に対してもっとも遠く離れている位置に作られる。しかし個々のアリたちが従事するそうした行動を監視したり調整したりしている個体や集団はどこにもいない。女王アリは巣の奥深いところにいてせっせと卵を生み続けているだけである。しかも、女王アリの寿命(通常は十五年ほど)に等しい寿命をもつ群落(コロニー)では、個々の働きアリの寿命はごく短くて、毎年新しいアリが生まれてくる。生まれてきたアリたちは、全体として群落(コロニー)自体がまだ若いうちは、他の群落(コロニー)に属するアリたちに対して荒々しく好戦的な行動を示す。しかし、年数がたつにつれて、新しく生まれてきたアリたちは、あたかも老成したアリであるかのような、成熟した闘争回避的な行動を示すようになるという。あるいは、都市もまたアリの群落(コロニー)と同様に、情報を貯蔵し引き出す能力をもっていて、人間行動のさまざまなパターンに反応しうるような創発的知性を示すのである。
*7
自動車産業の研究家として世界的にも有名な経営学者の藤本隆宏は、日本の自動車産業が二十世紀後半に示した「もの造り能力」や「改善能力」のような企業の組織能力も、事前に合理的に計画されたものではなく、事後的に合理的と判断された「創発的なプロセス、つまり、当事者が必ずしも事前に意図していなかった径路で、徐々に、累積的に形成された。したがって、他の企業がこれを事前に察知することはきわめて困難だったし、競争力格差に気づいた後も、その組織能力の総体を把握することは難しかった」と述べている。
*8
藤本のいうように、一個の経営体の生み出した強い競争力さえ事後的な「創発」の産物だとすれば、産業全体、さらには一国の経済全体の「競争力」なるものの消長は、さらにより創発性の強いもの、人知を超えたものではないだろうか。それを計画したり政策的に制御したりできると考えるのは、人間の傲慢にすぎないのではないか。恐らく、景気の循環や戦争や平和、あるいは社会の安全や混乱といったマクロ的現象はすべて、基本的にはそうした創発性の産物だと思われる。
*9
だが、かりにそうであったとしても、他の生物はいざ知らず人間は、ローカルな行動のレベルでも、単に規則にしたがって行動するというよりは、「合理的」、「戦略的」に自らの行動を選択しようとする。また、自分がより大きなシステムの一個の要素にすぎない場合でさえ、システム全体を見る(あるいは見ているつもりになる)ことや、システム全体あるいは少なくとのそのサブシステムの挙動や構造を計画したり制御したりすることが、できると考えて行動しがちである。しかもそうした行動が、意図通りにかどうかは別として、環境および相互とのローカルな相互関係の中で自分にとってより有利な結果をもたらしたり、システムの全体的な挙動や構造にもなんらかの意味ある効果を生み出したりする可能性は、まったく否定するわけにもいかないだろう。個々の人間は、その意味では、ローカルな関係を超越するグローバルな視点や意図にもとづく「自己決定」をなしうる「主体」でもあるのだ。しかし、さらにいえばそのような決定と行為の能力を含む個としての「私」の「自己性(アイデンティティ)」自体――すなわち、私と他者を区別すると同時に同一化しているさまざまな属性の統合的集合体――も、私が遺伝的に受け継いだ諸属性(もしくはそれらの属性の発現可能性)を基盤としながら、他者や環境との部分的で実際的な日々の相互関係や相互作用を通じて、他人の心の中に、また私自身の反省意識の中に、不断に「再想像」
*10
され、「創発」され続けていくのだろう。恐らくそのような事情の絡まりあいが、人間を要素として含むより大きなシステムの人間自身による理解を、複雑で困難極まるものにしていると同時に、そのような大きなシステムを構想し、構築し、理解し、制御しようとする人間の欲望を、いっそう掻き立てもしていると思われる。とりわけ、当初は予想もしていなかった秩序が「創発」されたことに気づけば、それを維持・改善したり、同様な秩序を新たに人為的に「創出」しようとする欲望が生まれることは、ほとんど不可避といってよいだろう。
だが、その点はさておき、ジョンソンの議論でさらに興味深いのは、彼のいう「三つの自己組織レベル」に関するものである。
*11
彼によれば、人間の脳が発達させた驚くべき能力とは、他人の心を読む能力であり、それが実は人間の自意識の基盤となった。しかし、他人の心を読みその行動が示すパターンの意味を理解できる脳の能力は、たかだか百数十人を相手とするものに限られていた。これがより巨大な情報集積体としての都市となると、ジェイン・ジェイコブズがいち早く指摘したように、
*12
近隣住区という形態で人びとの集合行動のパターンをみることが可能になり、数十万の人びとの共同生活が可能になった。そして今日、コンピューターのソフトウエアが、ウェブでの人びとのオンライン活動のパターンを解析することで、何千万、何億という人びとの心、つまりわれわれ自身の心を読み、しかるべき対応――たとえばある人が興味を持ちそうな新刊書の推薦――をすることが可能になりつつある。つまり現在進化しつつあるソフトウエアは、人間精神の読み取り機になる方向に向かっているというのである。いいかえればここに、ソフトウエアの力を借りて、人びとがお互いの心を読み取り、コミュニケーションとコラボレーションを、さらには相互の奉仕を、より高度なレベルで展開していく可能性が生まれつつある。ジョンソンの言葉で言えば、われわれはいまようやく、「創発」のなんたるかを理解し、それを単に事後的に観察・分析したり、模倣的に再発・創出させたりしようとしていた段階から、新たな創発現象そのものを意図的・人為的に生み出す段階に入ったのだ。
*13
恐らく、情報社会での監視と協力の問題も、そういった観点から捉えなおしてみることが必要だろう。
しかも、ジョンソンによれば、このような新しい自己組織型のソフトウエア・ゲームに接する子供たちが示す能力のなかでは、それを合理的に解析して隠れた因果関係を取り出して「裏技」を発見する能力など二義的なものでしかない。むしろ、これからの新しい智民にとってより重要な意味をもつようになる能力は、一見意味をなさないように見えるゲームのルールや目標が与えられていても、辛抱強くそれと付き合い、興味深い結果が創発してくるのを待って、それを享受する能力になるだろう。
ここには、未来の智民としての子供たち自身が、自己組織型のソフトウエアと共進化していく傾向が、見て取られるように思われる。
*14
なぜならば、ここでジョンソンが指摘している子供たちの間にみられる新しい資質の発展は、すでに一九八〇年代に、MITのシェリー・タークルが子供たちのプログラミングにみられる二つの傾向として指摘していたものと、重なり合っているからである。彼女は、小学校に導入されたコンピューターのプログラムを、生徒たちがどのように作るかを調べて、子供たちはコンピューターによって「育てられて」いくことに気づいた。すなわち、「物的世界と精神的世界の中間に位置する」コンピューターに接した子供たちは、最初はコンピューターとは「何者」かと不思議がりながら、それは「生き物」、「ともだち」に違いないとまず判断し、次にコンピューター操作の習熟に熱中し、そしてコンピューターとの関わりを通じて自我をみつめ直し、自我を確立させていくのである。
タークルはまた、子供たちのプログラミングの手法が、これまで想定されてきたような「合理的」「計画的」なものばかりとは限らないことにも気付き、プログラミングにおける「ハード・スタイル」と「ソフト・スタイル」という二つの類型を見いだした。前者は、世界を自分がコントロールできるものとみなし、複雑な世界を単純化し法則に従うものとして捉えようとする傾向をもつ。コンピューターをも力で支配し、思い通りに動かそうとするのである。それに対し後者は、世界を自分の力ではコントロールできず自分が適応していくべきものとみなし、空想の中で世界と自分を、コンピューターと自分を、一体化させるのである。タークルによれば、後者のタイプの生徒 (女子に多い) は、科学に弱く、プログラミングに上達するはずがないと思われていた。しかし、実際にはコンピューターとの共同生活の中で、後者のタイプの生徒の間からもすばらしいプログラマーが続々と生まれたのである。コンピューターの世界は、科学の世界と同様、これまではハード・スタイルの人間のための世界だと考えられていたが、ソフト・スタイルの人間にも、十分活躍の場がありうるというのが、タークルの発見であり、主張でもあった。
*15
それにしても、このような「創発」は、なぜ、いかにして、可能となるのだろうか。数理生物学者のスティーブン・ストロガッツは、『シンク』と題されたその近著 *1 のなかで、創発性のさらに背後にあると見られるある普遍的な仕組みの一つ、「同調(シンク)」について述べている。
ストロガッツの考え
*2
では、万物は固有のリズムをもつ振動子(オシレーター)である。生物は、体内に固有の時計をもっていて、それをもとにしてその各部分の振動のリズムを調整している。しかも、各振動子は固有のリズムをもつと同時に、それを取り巻く他の振動子のリズムによっても影響を受けている。たとえば、ニューロンの中では、電位のレベルが次第に上昇してある臨界値に達したところで電気エネルギーの放出が行われ、しばらくは不活性状態になる。その後また電位のレベルが上昇し始めて臨界値に向かうといったサイクルが繰り返されている。だがこのサイクルは、環境からまったく独立に発生しているのではない。あるニューロンの電位レベル上昇の初期では、周囲のニューロンが電気エネルギーの放出を行うと、そのニューロンの電位レベルの上昇速度は抑制される。逆に後期には、上昇速度は促進される。多数のニューロンの間にこのような非線形の相互作用があるために、同調(シンク)プロセスがそこに発生し、とくに中心的な指揮者がいなくても、多数のニューロンの電気エネルギーの放出サイクルが同期されていくのである。つまり、自立と同調は表裏一体の関係にあるといえるのだが、創発的な秩序の根源には、このような振動子間の非線形の相互作用があるとみることができるのかもしれない。
ストロガッツの予想では、数世紀にわたる自然の還元主義的な研究の後で、科学はようやく新しい時代の曙を迎えている。Cの字で始まる新しい理論分野――60年代のサイバネティックス、70年代のカタストローフ理論、80年代のカオス理論、90年代の複雑系(コンプレクシティ)の理論など――が次々に登場してきたのである。もっともこれまでのところは、そうした新理論のもたらした結果は、誤っているか自明なことがほとんどだった。それらはたかだか、新しい時代の予兆にすぎなかったのである。
だがようやくここへきて、主流の科学者たちも、今日の人類を悩ましているさまざまな不可思議な問題――ガン、意識、生命の起源、生態系の回復力、エイズ、地球温暖化、細胞の働き、経済の波動など――の解明には、還元主義では不十分なことを認めるようになってきた。これらの未解決な問題をなんとも煩わしいものにしているのが、それらが極めて多数の構成要素をもち、それぞれが時々刻々に自らの状態を変化させつつ互いに作用し合っているという分散的なダイナミックス性にある。それは、個々の要素を別々に調べるという方法では研究のしようがない。ここにみられる全体としての現象は、部分の総和以上のものであり、根本的に非線形の現象なのである。そして同調(シンク)の数学理論こそは、このような現象の解明に貢献し得た厳密な理論の、最初の第一歩となったとストロガッツはいう。
ストロガッツの予想では、この理論における基本単位としての「振動子」は、より複雑な非線形系の研究が発展させられていく中で、いずれは、より豊かな内容をもつ「遺伝子」や「細胞」や「企業」や「人びと」に置き換えられていくだろう。
*3
現在でもすでに、その成果は、流行や交通渋滞、競技場や劇場での同調型の「ウェーブ」や拍手、生物がもつ固有の体内時計のリズムと環境のリズムとの間の同調、一九九七年に日本の子どもたちがポケモンのテレビを見ていて起こった光に感応する癲癇症状から、さらには人間の脳に見られる対象の認知と自意識の発生の仕組みなどの解明にいたる、さまざまな分野で見られ始めている。
*4
同調現象の普遍性の発見は、人間自身の本質の理解にも修正を迫る一面をもっている。すでに述べたように、近代人の多くは、豊かな知識と教養をもち、自己の信念に忠実に生きる「自律的な強い個人」を、理念像としてもっている。それは、事実としての個々人のあり方の一面を反映したものでもあることは確かだろう。しかし、東[二〇〇一]だけでなくバラバシやワッツの最近の研究
*5
が示すところでも、現実の個々人は、互いに作用や影響を受けて同調しやすい「弱い個人」としての側面をも強くもちつつ、巨大で複雑な社会的ネットワークのノードとなっている。つまり、ここでも個々人の自立性と同調性は表裏一体の関係にある。しかも社会的ネットワークのノード間の関係や作用はやはり「非線形」であるために、ノード間のローカルな結びつきや相互作用がどんなグローバルな規則性を創発させるかを、解析したり予測したりするのはきわめてむずかしい。だから、このような社会的ネットワークの研究は、コンピューターによるシミュレーションが可能になると同時に、インターネットの発達によって大量のデータをすばやく収集できるようになって、初めて突破口が開かれたのである。
同調にもとづく秩序の創発が、集団的行動にはほぼ普遍的にみられるとすれば、スマートモブズはこれからの情報社会にどのような社会秩序を創発させるのだろうか。おそらくその形も内容も、成熟した近代社会の秩序にふさわしい多様で豊かなものになると想像されるのだが、その内容を具体的に予想することは、ほとんど不可能だろう。しかし、新しい秩序が向かう方向性については、多少とも意味のある予想が可能かもしれない。
かつてケネス・ボールディングは、テイヤール・ド・シャルダンの進化論を念頭におきながら、非可逆的な「時間の矢」は、熱力学的なエントロピー増大過程(下向きの矢)と進化の過程(上向きの矢)の両方において、それぞれ方向を異にしながら現れると考え、後者については次のような見方を示した。
知識の成長は、人間の歴史における――宇宙の歴史における、といってもほとんど構うまいが――もっとも持続的で重大な運動の一つである。進化過程全体を本質的に知識の成長過程であるとみなすのは、おそらく知識という言葉の無理な拡張解釈であろうが、もしわれわれが知識を、情報の資本化された構造物、すなわち、ありそうもない配列もしくは構造、と考えるならば、進化過程の全体を特徴づけているものは構造の起こりえなさのこのような増加なのだ、ということを、知るのである。化学的な元素でさえ、原子価という形での「知識(ノウハウ)」をもっている。つまり炭素原子は、四つの水素原子をひっかける仕方を知っているが、五つの水素原子のひっかけ方は知らないのである。遺伝子は、疑いもなく、それが創り出す生きもののための青写真という形での、知識(ノウハウ)を表している。そして、人間や社会の発展は、人間の知識、つまり、人間という有機体の内部にあって外部世界となんらかの形で対応しているイメージ、の成長と根深く結びついているのである。 *1
生物だけでなく、振り子時計のような物理的システムから宇宙的過程や量子レベルにおいてさえ見られる同調(シンク)過程
*2
に始まり、遺伝子のレベルに根ざす無意識の相互的利他主義
*3
や、群落(コロニー)や群がり(スウォーム)が創発する各種の共働行動
*4
、さらにはアクセルロッドらが問題にしたような人びとの間の「協力の進化」
*5
にいたる過程は、まさにボールディングのいう「上向きの時間の矢」に沿って生じている広義の進化過程だといってよいだろう。
ロバート・ライトもほぼ同様な観点に立って、アンリ・ベルグソンの「エラン・ビタル(生の躍動)」やティヤール・ド・シャルダンのいう時空を超えた「オメガ点」に向かう進化といった神秘主義的な考え方は、科学的にはそのままではとうてい受け入れられないにしても、ド・シャルダンが二〇世紀の半ばに提唱した「精神圏(ヌースフィア)」の観念は、二〇世紀後半に見られたテレコムの発達、とりわけインターネットの普及を、まさに先取りしたものといえると述べている。そして、進化の歴史の中には、ゲームの参加者がすべて不利な結果をこうむる負和性や一方が他方を搾取する事態も見られないわけではないが、そこに一貫して見られるのは正和性の増大だと主張する。現代が、いかに激しい混乱と激動の時代に見えるにしても、過去にしばしば見られたのと同様、いずれはより大きな正和性をもつ新しい均衡と安定の時代にまた入っていくだろうが、それこそが人類の「天命Destiny」だという。
*6
つまり、ライトの考えでは、物理システムについてまで「進化」が云々できるかは別としても、有機体や人類のレベル、中でもその「文化の進化」
*7
のレベルに注目するならば、「時間の矢」という見方は十分に意味がある。フォン・ノイマンやオスカー・モルゲンシュテルンが創始したゲーム理論の観点に立脚するならば、生命一般の、とりわけ人類(およびチンパンジーやボノボのようなその近縁種)の文化の、進化過程に見られる「時間の矢」は、「非(ノン)ゼロ和」的(とりわけ「正和」的)相互関係―――つまりお互いの必要を満たし合う関係――の一貫した増大過程(およびそれにともなうますます高度な技術の誕生と、社会の構造的および情報的な複雑化の過程)として解釈できる。
*8
人間は、歴史を通じて、蒸気機関やアルゴリズムなどの技術や、貨幣や憲法などの「メタ技術」に助けられて、競争的なゼロ和ゲームを止めると同時に、ますます複雑になる非ゼロ和ゲームを行い始めるすべを学んでいったのだが、
*9
ライトの考える知識の進化の中核的実質をなすのが、そうしたゲームがもたらす非ゼロ和性の増大なのである。
しかし、はなはだ興味深いことに――いや、まことに当然なことにというべきかもしれないが――そうした進化自体を引き起こす原動力ともいうべきものは、権力や富や名声などの面で他の個体よりも優位に立ちたいという個体の間主体的な「欲望」なのだ、とライトは一貫して主張している。それは、より根源的には、自分自身のコピーを残し増やしていこうとする遺伝子の「欲望(?)」とも連動している。それに較べると、恐らく「動物化」という言葉で示されている個人の主体性や社会性の減衰ないし喪失は、過渡的なものにすぎないと考えざるをえないのである。
ライトはさらに、その長い物語の最後の部分で、人類の進化が、巨大なグローバルな脳および意識の出現をもたらす可能性について、そして生命体のそのような進化過程が、それ自体としてより高次の「目的」――生物個体の生の目的が遺伝子の維持と増殖にあるといいうるのと似たような意味で、地球上の生命体の全体としての進化の目的が、地球的生命の維持と増殖にあるといったような目的――をもっている可能性についても論じている。
*10
ボールディングの試みに並ぶライトのこのような試みは、20世紀を特徴づけた、一方における極端な文化絶対主義と歴史主義(ファシズムや共産主義)と、他方における極端な文化相対主義(フランツ・ボアズやマーガレット・ミード)と反歴史主義(アイザヤ・バーリンやカール・ポパー)の間の分裂と対立を、あらためて総合しようとする「成熟した近代主義」の試みということができるだろう。ライトによれば、
「ラストモダン」の立場に立つ私としては、ライトのこのような主張には大きな共感を覚える。
だが、このような試みや主張は、決してライトだけの孤立したものではない。それどころか、近年の複雑系研究の流れの中では、むしろ主流とさえいえるものかもしれない。実際、多年サンタフェ研究所の活動を主導した研究者の一人、スチュアート・カウフマンも、その近著『探求(インベスティゲーション)』
*12
の中で、生命の進化の方向として「生物圏は、長いスパンでみたときの平均として、自律体や自律体が生活する方法の多様さが最大になるように構築されるのではないか。すなわち、平均として、生物圏は次に起こることの多様性を常に増やしている」(訳書、一七ページ)という仮説を提唱している。彼のいう「自律体」とは「少なくとも一つの熱力学的仕事サイクルを実行できる、自己複製可能なシステム」(同、一八ページ)だと定義されていて、生物圏にみられる進化過程は、「自律体が、仕事や制約条件の構築、仕事の達成からなる一連の組織体を共構築し、それによってさらに組織体が増殖し多様性を増す」(同、二〇ページ)過程にほかならないという。「時間の矢」に関する彼の仮説は、エントロピーの不断の増大を意味する「閉じた熱力学系における熱力学の第二法則ではなく、非平衡的に隣接可能な領域へと拡大していく動き」(同、九三ページ)、すなわち、「宇宙にある生物圏、また宇宙そのものをつかさどる」「開かれた熱力学システムについての第四の熱力学法則」(同一五ページ)だというものである。
カウフマンによれば、このような自律体は共進化する。すなわち、「自律体が仕事サイクルにおいて[エネルギーを発生させる]発エルゴン反応と[エネルギーを必要とする]吸エルゴン反応とを組み合わせているからこそ、こちらで高エネルギー源を費やすことが、あちらで構造体や組織体をつくるために用いられる。実際、自律体の共進化によって、自律体内や自律体間に発エルゴン反応と吸エルゴン反応のネットワークがおのずから形成されるのである」。しかも、「この組織体が構築されるときの根底にある中心的要素」は、生物圏を人間に拡張した「経済」に見いだされる「取引の利益」という概念に集約される、とも彼は主張する(同、一三八ページ)。これこそまさに、ライトのいう「ノンゼロ」の原理そのものだといえよう。
これまでみてきたように、今日の近代文明では、国家化の傾向には変質が見られる一方で、産業化が成熟すると共に情報化が出現しつつある。さらに「深度」をあげた眼でみるならば、第三次産業革命と第一次情報革命とが互いに並行して、「出現の成熟」と同時に「突破の出現」の局面に入ろうとしている。そうした社会変化を今後しばらくの間主導していくと思われるのが、モバイルでバーベイシブになっていく情報通信デバイスとスマートモブ化し動物化する智民たちである。
この社会変化過程は、少なくともある一面では、正高[二〇〇三]が指摘しているような、「ケータイをもったサル」に向かうような、人びとの退化あるいは幼形成熟(ネオテニー)の傾向を示すだろう。だがいずれは、新しいパワー(知力)を具現し、新しい原理(共の原理)に立脚して行動する、新しい組織形態(情報智業)と社会活動(智のゲーム)がグローバルに普及し、人びと(智民)がもつ「群がり」としての能力や彼らが享受する生活の質は、少なくとも全体的には、それ以前の時代の「国民」や「市民」(「消費者」および「従業員」)のそれを超えるようになるだろう。豊かさの増大、つまり経済成長は、物理的価値の成長よりは知的価値の成長にシフトしながらも、依然として持続するだろうし、楽しさの増大、つまり知的成長も、さまざまな智業の隆盛のなかでさらに加速していくだろう。
*1
このようなある種の楽観的な見通しが正しいとして、それではその過程で、人びと(や彼らが参加するグループあるいは群がり)相互間の、パワーや成果の配分というか分布はどのような形をとるだろうか。恐らくそこでも、これまでの近代化過程(あるいはライト流にいえば「文化進化」の過程全体)に見られたように、最初はパワーの配分における大きな社会的格差(ディバイド)が発生するが、いずれはある程度の平等化が実現するものと、いちおうは予想される。
しかし、事態はそう単純ではない。なるほど近代文明社会の進化は、貴族と平民、ブルジョアジーとプロレタリアートといったような、社会の構成員の質的な「階級分化」や「差別」は消滅させるような平等化の傾向をもっているかもしれない。しかし、それが同時に量的な平等をももたらすというわけには、必ずしもいかないらしいのである。
かつてカール・マルクスは、人々が「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」共産主義社会を、社会の理想状態だと考えた。
*1
しかし、このマルクスの言葉自身、人々の「能力」や「必要」は均一ではなく、その結果として人々の「働き」や「受け取り」の大きさも平等ではありえないことを当然の前提としている。
ここでは、人々の「能力」や「必要」が、どこまで不均等なのかという問題には立ち入らないで、「働き」と「受け取り」にもっぱら目を向けてみよう。言い換えれば、人々の社会(あるいは自分の属しているグループ)への「貢献」の大きさと、人々が社会(あるいは自分の属しているグループ)から受け取る「報酬」の大きさに注目しよう。明らかにそれらの大きさは均一ではなく、さまざまな異なる値をとっている。つまり、それらはある「分布」を示している。では、その分布の形はどのようなものだろうか。
同種の個体群(母集団)に属する各個体が通有するなんらかの特性が、個体ごとにさまざまに異なる値をとって分布している場合、その分布の形はもっとも典型的には、つりがね型の「正規分布(ガウス分布)」と呼ばれるものになっているというのが、これまでの常識だった。
*2
個々の正規分布の形自体は、理論的には、二つの統計量、すなわち「平均」と「分散」(あるいはその平方根としての「標準偏差(シグマ)」)によって完全に特定できる。そして、ある母集団に属する個体がもつ特性値は、正規分布の場合、平均値を中心とする上下3シグマの範囲内に、全体の九九.七%が入っている。個人のもつ物理的特性、たとえば身長や体重は、ほぼ正規分布に従っているとみてよいだろう。
*3
ところが、個人のもつ社会的特性、とりわけ個人が社会のなかで獲得する報酬や評価、つまり権力や富や名声は、はなはだ不平等というしかない形で一部の少数者に集中しがちである。このことは、昔から経験的に知られていた。米国の社会学者ロバート・マートンは、人間社会の中に富める者はますます富む傾向があることは、聖書のマタイ伝にも書かれているとして、これを「マタイ効果」と名付けたという。
*4
多くの大衆にとって、あるいは民主主義者やリベラリスト的価値観の持ち主たちにとっては、これははなはだ不愉快な事実にみえるだろう。能力的にはそれほど大きな差がないと思われるのに、なぜごく一部の人間が大金持ちになったりスターになったりするのか。営々と働いている庶民の努力が報われないのは、はなはだ不公平ではないかというわけである。
他方、より近年には、「マーフィーの法則」とか「八〇対二〇の法則」などと呼ばれる形で、集団のあげる成果のほとんどがごく少数者の努力と貢献に集中していること、あるいは活動している時間のごく一部に集中していることが知られるようになった。ある企業の利益の八割は従業員の二割が生み出しているとか、会議における重要な決定の八割は二割の時間のうちになされるとか、税額の八割は二割の納税者が収めている、といった発見がそれである。
*5
多くの勤勉な従業員、あるいはエリートを自認する人々にとっては、これははなはだ不愉快な事実にみえるだろう。少数の勤勉かつ有能な自分たちが圧倒的に多数の怠け者や無能者を養わなくてはならないという事態は、別の意味で不公平にみえるのである。
しかも、この種の貢献あるいは能力の不平等は、人間社会だけでなく、アリやハチのような社会性昆虫にも見られるらしい。イリヤ・プリゴジーヌは、本田賞授賞記念講演「人間と自然の新しい対話」
*6
の中で、同一のコロニーに属するアリの中にいる「働き者」と「怠け者」を区別しようとした実験にふれて、次のように述べている。
対象コロニーは「合成コロニー」であり[中略]非常に同一性の高い集団でありますが、それでも「働き者」と「怠け者」の蟻を区別することができます。ここで「怠け者」の蟻だけを取り出してまた同じ実験を行った場合、結果として怠け者のうちかなりの部分が働き者にかわります。 このことは、活動それ自体が遺伝的に決定されているのみならず、大きな「社会的」要素がそこにはあるということを示唆しているといえます。これは人類学的にもあてはまるのではないかと思われます。 *7
こうした事態が愉快か不愉快かはともかく、事実の問題としていえば、全体社会の中での、あるいは個々の社会的なグループの中での各メンバーに与えられる報酬やメンバーが行う貢献は、均等に分布しているわけでもなければ、つりがね型の正規分布をしているわけでもない。それは、別の形の分布、いわゆる「ベキ法則」に従っているらしいのである。
すでに一八九七年に、イタリアの社会・経済学者ビルフレッド・パレート(一八四三-一九二三)は、一八八〇~九〇年代のヨーロッパ諸国の経済統計を分析して、個人の所得金額(x)とその所得金額以上の所得を得ている者の数(Rx)との間に、定数 a とパラメーターαに媒介される
Rx = ax-α (1) (αは正の数で、通常1前後の値をとる)
のような関係(パレートの法則)が成立していることをみいだしていた。 *8 この関係は、所得者の絶対数ではなく、所得者総数(N)に対する割合(qx)として示し直すと、
qx = (a/N)x-α (1)’
と書ける。なお、熱心な園芸家でもあったパレートはまた、自宅の菜園から収穫されたえんどう豆の八〇%は二〇%の莢からえられることをみいだしたともいう。そのために、パレートの法則は後に、「八〇対二〇の法則」とも呼ばれるようになったのである。
*9
上の(1)’式を図にしたのが、図5.3.1である。
*10
[図5.3.1:パレートの法則]
また、米国の言語学者ジョージ・キングズリー・ジップ
*11
は、英単語の出現頻度と出現順位の間や、都市の人口規模(x)と規模順位(R)の間には、定数 b とパラメーターβによって媒介される関係
x = bR-β (2)
が成立していることを見いだした。しかも、実際のデータによれば、この式でパラメーターとなっているベキ指数βの値は、多くの場合、1に等しいので、その場合には、(2)式は、次の(3)式のような反比例関係の式になる。
x = b/R (2)
この式も、グラフにして示すと、形の上では先の図5.3.1とほとんど区別のつかないものになる。
これに対し、いわゆる「ベキ法則」は、二つの変数yとxの間に、定数 c とパラメーターとしてのベキ指数γが媒介する
y = cx-γ (3)
のような関係が成立している場合をいうのだが、ゼロックス・パロアルト研究センターのラーダ・A・アダミックは、パレートの法則もジップの法則も、物理学でいう「ベキ法則(パワー・ロー)」を確率密度関数とする、累積確率分布関数として解釈できることを示した。 *12 すなわち、まずパレート法則について、所得金額がx 以上ではなくて以下である人々の割合(px)をとるならば、上記 (1)’ 式は
px = 1 - qx= 1 - (a/N)x-α (1)’’
となるが、これは変数x に関する累積確率分布関数とみなせる。同様に、ジップの法則は、たとえば人口規模がx 以上である都市の数 R を示す関係式、すなわち
R = b1/βx-1/β (2)’
だと解釈できる。その上でこの式を、都市の絶対数ではなくて都市総数(N) に対する割合(r)を示す式に書き直せば、
r = b’x-1/β (2)’’ b’ =b1/β/N
がえられるが、これはα=1/βと考えれば先の(1)’式の形にしたパレート法則そのものになるので、先の場合と同様な手続きで累積確率分布関数に書き直すことができる。したがって、それらを微分することで確率密度関数がえられるのだが、それらがベキ法則と同一の形をしている(ただし、γ=1+α= 1+1/βの関係になっている)ことは、いうまでもないだろう。すなわち、
y = cx-γ = cx-(1+α) = cx-(1+1/β) (4)
となる。つまり、ベキ法則は、パレート法則やジップ法則の背後にある確率密度関数を示すものにほかならないのである。しかも、グラフにした場合の形は、三つともほとんど区別のつかないものになってしまう。
累積確率分布関数と解釈できる(1)’’式は、グラフにすると図5.3.2のような形をしている。これを正規分布型の累積確率分布関数のグラフである図5.3.3と比較すると、その違いは明らかだろう。同様に、確率密度関数のグラフを正規分布の場合とベキ法則の場合を一枚の図に重ねて示すと、図5.3.4のようになる。
[図5.3.2:ベキ分布の累積確率分布]
[図5.3.3:正規分布の累積確率分布]
[図5.3.4:ベキ分布と正規分布の確率密度分布]
したがって、社会的な事象にパレート法則やジップ法則に従うものが多いとすれば、それらの分布は――しかるべき補正を加えた――ベキ法則に従っていると言いなおしてさしつかえないことになる。
なお、ベキ法則を示す関係式(3)を対数変換すれば、
log y = log C -γlog x (3)’
となる。 *13 これをグラフで示すと、図5.3.5のようになる(図には、比較のために正規分布を対数変換したものも示してある)。したがって、ベキ法則に従う分布(ベキ分布)は「対数線形」の分布であって、正規分布のような x のある値(平均値)の周辺にほとんどの個体の値が集中しているような特徴はみられない。つまり、この種の分布は、x の特定の規模(スケール)とは無関係に一様(スケール・フリー)な分布なのであって、平均値も分散も無限大になってしまうのである。ということは、確率密度関数としてのベキ分布は、それを単純に積分すればその値も無限大になってしまうので、積分値が1になるという確率密度関数の要件を満たせないことになってしまう。したがって、(3)のような式を確率密度関数として利用するためには、その両端を適宜切り捨てて、積分値が1を超えてしまわないようにする補正が必要とされる。 *14
[図5.3.5:ベキ法則の対数表示]
そのような補正は、理論的に必要なだけではなく、現実への応用にとってもかえってベキ法則の有用性を高める。現実の世界では、事象の最大値や最小値が無限大や無限小という場合はありえないので、特定の母集団のもつ特性値の分布は、かならずある最大値と最小値をとる。したがって、ベキ分布式もそれにあわせてその一部だけを確率密度関数として利用すればよいのである。
このようなベキ分布にあっては、ほとんどの個体が平均値よりは低い値しかとらないばかりか、きわめて多くが最小値の近辺に集まっている一方で、ごく少数の個体がきわめて大きな値(最大値に近い値)をもつことになる。その結果として、「八〇対二〇」と呼ばれるような関係、つまり二割ほどの少数者が全体の八割を手にしているという関係が生まれているのである。しかし、ベキ分布の「スケール・フリー」性を考えれば、「八〇」や「二〇」という特定の数値にこだわることは危険である。先のプリゴジーヌの指摘にもあったように、二割の「働き者」だけを取り出して「少数精鋭」の集団を作ってみたところで、その中ではまたしても「八〇対二〇」の関係が発生してしまうことを覚悟せざるをえないのである。
*15
したがって、ベキ分布の場合は、母集団内の少数者への集中の度合いを示すベキ指数γ(正確にはその逆数)の値にむしろ注目すべきである。つまり、γ(あるいはパレートの法則におけるα)の値が小さければ小さいほど、あるいはジップの法則におけるβ値が大きければ大きいほど、当該母集団にあっては相対的に少数者が相対的に多くを独占することになる。正規分布している母集団の特性が平均値と分散の二つによって集約的に表現できるとすれば、ベキ法則にしたがって分布している母集団の特性は、その最大値(もしくは最小値)とベキ指数の二つによって集約的に表現できるだろう。
このようなベキ分布の実例は、さまざまな個所に見いだされる
*16
が、ここではその例として、丸田一による日本の全国自治体の人口分布に対するジップの法則の検定結果と、豊福晋平による日本の小学校のホームページの年間更新頻度分布の調査例をあげておこう。
[図:5.3.6:日本の全国自治体の人口規模による配列]
(出所:丸田[])
[図5.3.7:その対数変換表示]
(出所:丸田[])
三千を超える日本の自治体の人口規模別分布は、丸田が作成した図5.3.6をみるかぎり、ジップの法則の理論値(β=1)とぴったり一致しているようにみえる。しかし、同じデータを対数に変換して表示したものをみると、二つの点で理論値からの乖離が目につく。その一つは、人口規模の大きい方の自治体の実際の人口は、ジップの法則が予測する理論値をかなり大きく下回っていることである。これは、大都市への人口集中に対する政策的抑制効果が働いていることを示唆している。つまり、「自然」のままに放置しておけば、大都市への人口集中は現状よりもはるかに進んでいた可能性があると考えられる。
*17
もう一つは、人口規模の小さい自治体でも、現実の人口規模は理論値を下回っていることである。これは、過疎化の傾向が、自治体の合併政策も追いつかないほど急速に進んでいることを示すものかもしれない。
豊福は、第一章で紹介した損保ジャパンのプロジェクトの一員として日本全国の二万四千ほどの小学校のうち、ホームページを開示している一万二千の小学校について悉皆調査を行って、ホームページの年間更新頻度を調べたところ、八二七五校についてのデータがえられた。その結果、学校の半数は一年間に一度も更新していなかったのに対し、ほとんど毎日のように(最高は三二四回)更新している学校もごく少数ながら見いだされた。図5.3.8はその結果を頻度分布図にして示したもので、図5.3.9はそれを対数変換して示したものだが、それらもベキ分布に非常によく合致したものとなっている。ここでも、理論値からの乖離は、更新回数の少ないところで大きい。
*18
つまり、それらの学校の数は有限なので、理論的に予想されるほど多くの学校がこの領域に存在することは不可能なのである。他方、ホームページを非常にひんぱんに更新している学校については、理論値のまわりにほどよく散らばっていて、先の人口規模別分布の場合に見られたような抑制効果が働いているようにはみえない。
*19
[図5.3.8:小学校ホームページの年間更新頻度分布]
(出所:豊福[]のデータから作図)
[図5.3.9:小学校ホームページの年間更新頻度分布(対数変換表示)]
(出所:豊福[]のデータから作図)
社会の中に広くみられるベキ分布は、貢献や報酬だけでなく、人々が社会活動を営むなかで作り上げる人的なつながりにもみられる。しかし一九五〇年代に始まったネットワーク分析の研究史のなかで、ネットワーク、とりわけ社会的ネットワークのリンクの分布がベキ法則に従っている場合が多いことが発見され、多くの研究者に強い衝撃を与えたのは、一九九〇年代の後半というごく近年のことだった。そこで、社会的ネットワークにみられるベキ法則について考える前に、研究史を手短に振り返っておこう。
社会のなかでの人々の結びつきは、人々という「ノード(点)」が、友人・知人関係のような結びつきを通じて互いに「リンク(線)」を張り合っている形の、「社会的ネットワーク」のモデルによって表現できる。この種の人的なリンクには、双方向の友人・知人関係だけでなく、「自分は相手を知っているが相手は自分を知らない」あるいはその逆のような、一方向のリンクもある。いわゆる「有名人」は、第一義的には、他人から張られているリンクの数が常人よりも圧倒的に多い人を意味するといってよいだろう。
しかし、これまでの社会的ネットワーク、あるいはネットワーク一般の研究では、ネットワークの中のリンクの分布は、「ランダム」だとみなすことが普通だった。リンクを通じてのノード間の結びつき方がランダムである場合、つまり特別な偏りがない場合のネットワークの特性は、一九五〇年代に、天才的な数学者ポール・エルデシュとその協力者アルフレッド・レーニーによって解明された。彼が発見したランダム・ネットワークがもつ驚くべき特性の一つに、「連結性」がある。すなわちリンクの数を次第にランダムに増やしていくと、あるところから突然相転移とでもいうべき事態が起こって、ほとんどすべてのノードが直接・間接に結びついてしまうのである。より正確にいえば、図5.3.10に見られるように、ノード当たりリンクの平均数が1に達したところから、ネットワークの連結性が突然増大し始める。すなわち、ネットワーク内で互いに直接・間接に結びついているノード・グループの最大のものに含まれるノードの割合が、急速に1に近づいていく。言い換えれば、ほとんどすべてのノードが突然、直接・間接に結びつき始めるのである。
*1
[図5.3.10:ネットワークの連結性]
(出所:Watts[二〇〇三]、四五ページ)
そればかりではない。あるノードから出発して他の任意のノードにたどりつくまでに経由しなくてはならないリンクの平均数をそのネットワークの「直径」と呼ぶならば、ランダム・ネットワークの直径は驚くほど小さい。たとえば一五〇億という膨大な数のノードをもつネットワークであっても、その各ノードが、それぞれ平均五〇本のリンクによって他のノードと直接ランダムに結びついている場合には、平均して六つのリンクを経ることで、他のどのノードにも間接的に結びついていることになる(506 = 15,625,000,000)。つまり、一五〇億ものノードの全体がわずか六の「直径」をもって互いに直接間接に結びつけられるためには、各ノードが全体の一五〇億分の五〇、つまり三億分の一のノードと直接に結びついているだけでよいのである。なぜなら、ノード数に比べてリンク数が著しく少ないランダム・ネットワークの場合には、リンクのつながりが閉じたループを作ってしまう可能性、つまりあるリンクを辿っていくともとのところに戻ってきてしまう可能性は、事実上ゼロに近いからである。
上の意味での「直径」がノード数に比べてごく小さいネットワークのことは、「スモールワールド(狭い世間)」と通称される。エルデシュらが研究したランダム・ネットワークが、あるレベル以上のリンク密度をもてば、スモールワールド性を示すようになることは、上の数値例からも明らかだろう。しかし、人間社会の知友関係によって形作られている社会的ネットワークは、エルデシュらが考えたようなランダム・ネットワークではありえない。むしろ人びとの社会的な結びつき(リンク)のほとんどは、家族・親戚や職場、地域コミュニティや同窓会、共通の趣味や思想で結ばれた小集団の内部に限られ、互いに重複している。つまり、その種の小集団は、その成員同士が互いにリンクを通じて結ばれあっている「クラスター」をなしている。多数のそうしたクラスターの集まりとしてある人間社会の全体がスモールワールド性をもつことは、直観的にはほとんどありえないことのように思われる。
エルデシュのあげためざましい業績の後、ネットワーク理論自体にはめだった展開はほとんど起こらなかった。だがその間、一九六〇年代から七〇年代にかけて、社会学の分野で、二つの注目すべきできごとが起こっていた。
その一つが、ハーバード大学の実験社会心理学者スタンレー・ミルグラムによる「六次の隔たり」の発見である。彼は、一九六七年に卓抜な実験を考案して、地球上のすべての人々は、互いにファースト・ネームで呼び合うことのできるような親しい知人に次々に中継してもらえば、たかだか六度の中継を経ることでお互いに手紙で連絡し合うことができるという可能性を示した。これが、人間社会の「スモールワールド」性が科学的に実証されたと信じられた
*2
最初のケースとなった。
この問題に別の側面から光を投げかけたのが、社会学者マーク・グラノベッターが一九七三年に発表した、「弱いつながりの強さ」と題する記念碑的な論文
*3
で明らかにした一つの発見だった。彼は、求職活動の調査を通じて、人々が新しい就職先を見つけるさいの有効な紹介者となるのは、親友や家族、親戚、地域コミュニティの仲間のような「強いつながり(strong ties)」の相手ではなく、ほんのちょっとした知り合いや偶然に近づきになった人のような、「弱いつながり(weak ties)」の相手である場合が圧倒的に多いことを発見したのである。
しかしミルグラムとグラノベッターの発見が、ネットワーク理論の発展と結びつくまでには、さらにもう何十年かの時間がかかった。ようやく一九九八年になって、数学者のダンカン・ワッツとスティーブン・ストロガッツが、クラスター型のネットワークとランダム・ネットワークを結合することで、より社会的ネットワークに類似した性質をもつネットワークにスモールワールド性が生まれることを、コンピューター・シミュレーションによって証明したのである。
*4
すなわち彼らは、n個のノードが円周上に配列されていて、各々のノードは、隣り合わせのノードと、一つおいた隣のノードとの間に、合計四本のリンクを張っている状態から出発した(図5.3.11)。このようなネットワークのトポロジーは、小さなクラスター同士が数珠つなぎの円環を作っている形のものだといってよい。その場合には、ノード間の分離度の平均値、つまりネットワークの直径は、約n/8となる。だがそこで、ランダムに選んだリンクのいくつかをこれまたランダムに選んだ(ほとんどの場合、もとのノードとは遠く離れている)ノードとのリンクに次々に置き換えていくと、あるところから突然、スモールワールド性がこのネットワークに出現してくることがわかったのである。
*5
[図5.3.11:クラスターをもつネットワーク]
(出所:Buchanan[二〇〇二]、五三ページ)
これを人間社会にあてはめてみれば、近くのノードとの間の規則的なリンクがグラノベッターのいう「強いつながり」に、遠くのノードとの間の偶然的なリンクが「弱いつながり」にあたるという解釈は、無理なくできるだろう。このようなネットワークでは、各ノード(各人)はそれぞれほぼ同数のリンクをもっているという意味で互いにほぼ対等の立場
*6
が、それにもかかわらずネットワーク全体としてはスモールワールド性が出現している。そこで、マーク・ブキャナンは、この種のトポロジーをもつネットワークのことを、「平等主義型」ネットワークと名付けた。
*7
それには、理由があった。なぜならば、同じようにスモールワールド性をもちながらも、トポロジー的にはワッツ/ストロガッツのネットワークとははなはだしく異なるものが、彼らの発見の翌年に、アルバート=ラズロ・バラバシらによって発見されたからである。バラバシたちはまず、ワールドワイドウェブの各ページの平均「隔離度」――つまり何回クリックすれば、あるページから他のページに到達できるか――を、自分の勤務している大学のウェブページで測定して、11という結果をえた。次に、10億ページにものぼるといわれるインターネット上のウェブページの全体について、隔離度を推計し、19という結果をえた。つまり、人間社会ほどではないにしても、ワールドワイドウェブのネットワークにもスモールワールド性が存在することが実証されたのである。
*8
しかも、バラバシたちは同時に、ワールドワイドウェブの各ページを結びつけているリンクの分布をも調べてみたところ、それは、平等でもなければ正規分布(あるいはポワソン分布)ですらなく、ベキ法則に従っていることをも発見した。インターネットのルーター間の結びつきがベキ法則に従うことは、その少し前にファルーツォス三兄弟によって発見されていたが、バラバシたちは同様なトポロジー的特性を、ワールドワイドウェブのページ間のリンク構造についても見いだしたのである。
*9
さらに彼らは、ワッツ/ストロガッツのデータをもらって解析した結果、ワッツ/ストロガッツがスモールワールド性とクラスター性を兼ね備えているネットワークの例とみなしたものの中の一つも、そのリンクの分布はベキ法則に従っていることを明らかにした。
*10
バラバシたちはさらに、さまざまな社会的ネットワークの中で、各個人がもっている「リンク」の数にはいちじるしい個人差があり、その分布はベキ法則に従っている例を、少なからず発見した。たしかに、人々がもっている知人や友人の数や、セックス・パートナーの数などには、極端に大きなばらつきがあり、世の中には、他の人々にくらべて圧倒的に大きな人脈をもつ、「コネクター」とか「ハブ」と呼ばれるタイプの人々が存在するのである。
*11
リンクの分布がベキ法則に従っているということは、圧倒的に多くのノードにはごく少数のリンクしか張られていない一方、ごく少数のノード――「コネクター」や「ハブ」――にはきわめて多くのリンクが張られていることを意味する。そこでブキャナンは、このようなトポロジーをもつネットワークのことを「貴族主義」的ネットワークと名付けた。つまり、スモールワールド性をもつネットワークは、リンクの分布のあり方によって、平等主義的なものと貴族主義的なものとに大別されるのである。もっとも、ワッツ/ストロガッツの平等主義的ネットワークにおける各要素のリンク数が完全に等しいわけではないのと同様に、バラバシ達の発見した貴族主義的ネットワークのノードも、少数の「貴族」とその他大勢の「平民」に階級的に二分されるわけではない。ベキ法則に従うリンク分布は、先に述べたように「スケール・フリー」性を示すために、つまり、ネットワーク全体のトポロジーはリンクの数とは無関係に一様なために、ある母集団に属する個体を質的に截然と区別される二つの「階級」に分けることは不可能なのである。
なお、ここでの議論の本筋からは外れてしまうが、スモールワールドの話の締めくくりとして、ダンカン・ワッツが提起している経路の探索可能性という興味深い問題について紹介しておこう。
*12
ワッツはいう。かりに人間社会のネットワークがスモールワールドであって、すべての人びとが互いにごく短い経路で結ばれているにしても、その知識が天上から人間界を見おろしている神にだけあって、当の人間たちには知りようもないのでは話にならない。しかし、本当に人間たち、つまりネットワーク内の個々のノードは、他のノードに到達する、しかも最短距離で到達する経路を知らないのだろうか。知ろうと思っても知り得ないのだろうか。これは実は、たとえばウェブのページに関する完璧な、あるいはきわめて効率的な検索エンジンが存在しうるのか、しうるとすればどうやって設計すればいいかという問題にも等しい。
ワッツは、さまざまな社会的ネットワークが、「人好き(homophilous)」度(類は友を呼ぶというような意味での同類というか同好の士のクラスターを作りたがる傾向)(α)と個人が同時に属する異なるクラスターの数(H)という二つの軸で作られる空間の中にある時、かなり広い範囲にわたって、最短経路の探索が可能なネットワークが存在することを明らかにした。つまり、人びとがかなりの程度人好きであって同好の士同士でつながりを作り合うと同時に、いくつもの異なる好みなり趣味をもっていていくつかのグループに同時に所属している場合には、ネットワークはスモールワールド性をもつばかりか、その中の最短経路の探索が可能になるというのである(図5.3.12参照)。
[図5.3.12:探索可能なネットワーク]
(出所:Watts[二〇〇三]、一五三ページ)
その可能性を示す一例として、彼は、中国にいる誰かと連絡できるための経路を知りたいと思ったとき、彼が属している複雑系の研究者のグループの中に、同時に中国に多くの知人をもっている中国系アメリカ人の同僚がいることに気がついたという話を、引き合いにだしている。つまり、この同僚は、複雑系の研究者のグループの一員であると同時に、中国での社会活動家のグループの一員でもあったのだ。そこで、彼は、まず彼女に渡りをつけ、彼女を通してその先の経路の探索をしてもらうことを考えた。この場合のポイントは、仮に(最短に近いと思われる)連絡の経路が発見されたとしても、ワッツ本人はそのすべてを知る必要がないしそうする能力もないということである。つまり、経路の探索は、共通のグループに属しているために経路の出発点での近傍についてはもっとも豊富な情報をもっている中継者をまず発見し、その人物を介して経路のその先の部分を探索していくという形で進むのである。それだと、このネットワークのメンバーたちは、全体を知っている「神」に頼らなくても、相互の協力関係を通じて、結果的に最短経路を発見しうることになる。
*13
ちなみに、このような経路は、各グループのメンバーは互いに「強いつながり」で結ばれていると想定するかぎり、どこにも「弱いつながり」を含む必要はない。その意味では、このようなネットワーク、いってみればクラスター重複型のネットワークのあり方は、グラノベッター流の 「弱いつながり」にもとづいているスモールワールドよりは、ミルグラムが当初考えた「ファースト・ネーム」関係でつながっているスモールワールドのあり方に近いといってよいだろう。しかも、その中でのリンクの分布は依然として平等主義型、つまりベキ法則に従っていない可能性も、充分にありうるのである。しかし、そうした問題の徹底的な解明は、今後の課題というべきだろう。
ベキ法則に従っている事物の分布が、単に異常な不均等性を示しているだけでなく、「スケール・フリー」性まであるとすれば、社会改革を志向する人びと――平等主義者であれエリート主義者であれ――にとって、事態はさらに不愉快なものになるだろう。一部の大金持ちを倒してみたところで、残る人々の間にやっぱりベキ法則が発現する。多数の怠け者を追放して少数精鋭の集団を作ろうとしてみたところで、その中にもやっぱりベキ法則が発現する。その種の事態がもっとも典型的にみられるのは、「私の原理」にもとづいて互いに結びつき相互作用している「私の領域」の事物が示す分布、すなわち富あるいは所得の分布や企業の規模別あるいは市場シェア別分布などだろう。
ベキ法則に従う社会的な事物のあり方が、倫理的にみて望ましくないとするならば、どのような対処の仕方があるだろうか。一つの仕方は、「公の原理」にもとづく政策的な介入である。すなわち、事態の進展を政策当局が常時監視していて、ベキ分布の右の端に発生する少数者への集中や独占を排除する一方、ベキ分布の左の端にあたる最底辺にかたまる傾向のある多数の個体の底上げもしくは切り捨てをはかる政策をとり続けるか、あるいはそのような仕組みを制度化して社会の中に、とりわけ「私の領域」の中に組み込むことである。実際、近代社会では、ベキ法則の作用が働いていることを自覚してのことだったかどうかは別として、結果的にその作用を軽減するような、そして全体の分布を分散の小さい正規分布になるべく近づけるような、社会政策や経済政策が系統的に採用されるにいたっていることは否定すべくもない。たとえば、独占禁止法や累進課税制度、あるいは最低賃金法や所得再分配制度などは、まさにそのような効果をもつ制度だといってよいだろう。しかし、そうした平等化の試みがいきすぎると、集団全体の活力が損なわれてしまうのではないかという危惧も、これまた昔からある。それならばということで、分布の中間領域にあたる有望な個体の参入や、彼らの相対的に急速な成長の支援を通じて、全体としての分布をより均等な方向にもっていく(つまり、確率密度関数のベキ指数の絶対値γを大きくする)ような、一種の「産業政策」の採用も考えられる。そうした政策や制度が有効に機能すれば、社会的事物の分布は――ベキ分布の両端が切り捨てもしくは中央に押し戻されると同時に、中間部分のレベルを引き上げることによって――多少とも正規分布に近い形になっていくことが期待される。だが、その有効性は保証のかぎりでない。
それでも、ベキ法則分布が見られるのが、圧政や独占の支配した過去の不自由で貧しい社会の特徴だとすれば、まだ我慢できる。進歩した近代社会では、社会的価値の分布は、完全に平等になることはないとしても、ますます分散が小さくなる正規分布に向かっていくのが自然の傾向だとすれば、未来に希望がもてるように思える。とりわけ情報化に伴って、「共の原理」にもとづく「共の領域」が社会的正統性を与えられ、社会のなかでのその比重を拡大していくとすれば、今度こそ近代文明社会は、ベキ法則の支配から少なくともかなりの程度解放されるのかもしれない...
だが、最近の社会的ネットワークの実証的・理論的分析が人々をもっとも困惑させたのは、独裁者や独占体からは無縁で、誰でもいつでもどこでも相互に対等の資格で参加できるはずの自由で平等なインターネットの世界――あるいは先に引用したバーローのイメージにある「サイバースペース」――にも、いやそれどころかインターネットの世界にこそ、ベキ法則がもっとも典型的に発現しているという事実の発見だった。ベキ法則に具現されているような不平等性のパターンは、インターネットの物理的な構造やトラフィックの分布、あるいはオンライン・コミュニティやウェブサイトだけでなく、その後生まれたさまざまなメーリング・リストにおいても、さらにはごく最近の「ブログ」の世界においても、繰り返し繰り返し執拗に出現しているのである。しかもベキ法則にしたがう不平等性は、グローバル(たとえば、特定のウェブ・ページに向かって張られたリンクの分布)にも、ローカル(たとえばメーリング・リストのなかでのメンバー間の書き込み頻度や量の分布)にも、共に広くみられる。そればかりか、そこには一種の二極分化――新しい「階級分裂」(?)――の可能性さえ見られるという危惧の声もある。たとえば、誰でもが対話型のジャーナリストになれるということで期待を集めたブログの世界、つまり、二〇世紀のマス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションの中間領域を占める「グループ・コミュニケーション」
*1
の一つの典型例だとみなせるブログの世界にも、それが普及するにつれて、やはり二極分化現象が見られそうだというのである。
*2
どうしてそんな結果になるのだろうか。
P2Pの唱道者の一人、クレイ・シャーキーは、インターネットの世界でベキ法則の発現が見られる理由について、それを、裏切り者が現れたからだとか、勝手知らずの新入りが増えたからだといった、もっぱら個人的な行動のせいにするのは誤りだと主張している。 *1 真の理由は、多様性と選択の自由が不平等を生み出していることにあり、選択しうる対象の範囲や多様性が大きくなればなるほど、また選択に参加しうる人々の範囲や資格に関する制限が少なくなればなるほど、選択される結果に見られる不平等は大きくなるというのである。言い換えれば、人々がたくさんの選択肢の中から自由な選択ができる社会では、誰一人として積極的にはそうする気がないとしても、各人が個別に行う選択の結果として、全体の中のごく小さな一部が不釣り合いに多くのトラフィック(や注目や所得)を引き寄せるといった結果が生じてしまう。ただし、自由な選択といっても、各人の選択が他人の選択とは独立に、つまりまったくランダムになされる場合には分布の不均等性は発生しないのであって、ベキ法則に従う分布が発生するのは、各人の選択が独立ではない場合、つまり身近な他人の選択に影響される場合に限られる。とはいえ、他人の選択に大きく影響される必要はない。各人の選択が、ほんのわずかな程度、他人の選択から影響を受けるだけでも、正のフィードバック効果が働くために、結果の分布の形は劇的に変化してベキ法則に従うようになるのである。 *2
シャーキーのこのような解釈は、一見逆説的に聞こえる。しかし実は決してそうではない。ベキ分布の特徴は、分散も平均も無限大である点に見られるが、経済物理学者の高安秀樹は、それを「第四の定常状態」にあるシステムの特徴だとしている。 *3 高安によれば、統計的な意味で定常状態にあるシステムとしては、これまで、
(1)閉じたシステム、
(2)熱平衡にあるシステム、
(3)プリゴジーヌらが考えた「非平衡開放系」、すなわち出入りするエネルギーの形は違っていても量的には釣り合いがとれているために定常性が実現しているシステム、
の三つが考えられていたが、それ以外にさらに第四のケースがあるという。それは、エネルギーの出入りの釣り合いが取れていないにもかかわらず、システムの内部でのエネルギーの吸収力や保持力が無限大である――だから平均や分散が無限大になる――ために、統計量が定常的になりうるシステムなのである。もちろん、そのような無限のエネルギー吸収力をもつシステムは、現実の物理的世界には存在しえない。したがって、「実際の現象に合わせようと思ったらカットオフを上と下につけて、そこを整合的にくっつけておいたモデルで考える必要がある」
*4
のだが、たとえば、お互いに付着し合う性質をもつ微粒子が大気内で漂っている間に凝集して発生するエアロゾルの分布などは、かなり広い範囲でベキ分布になっていることが観測されているという。
*5
高安はまた、同一の分布に従う多数の確率変数を足し合わせたものがやはり同じ分布をもつものは「安定分布」と呼ばれているが、正規分布はその意味での安定分布の中ではもっとも極端な例外的なケースであって、それ以外のすべての安定分布は、「ベキ乗の裾野」をもっているともいう。
*6
そうだとすれば、この宇宙の中では、ベキ分布(あるいは、ベキ乗の裾野をもつ分布)こそが、もっとも普遍的な分布であって、分布の中にもっぱら正規分布ばかりを見て取ろうとする傾向は、近代的平等主義者ないしリベラリストの知的バイアスだとさえいえるかもしれない。
*7
たしかに、狭義の物理現象に限らず、都市の人口規模別の分布や、企業の売り上げ規模別分布、ウェブサイトのリンク数別分布、あるいは富や所得の個人間分布といった社会現象の場合も、分布の中心部分がベキ分布になっていると同時に上下の両端でカットオフが見られることが多いようである。
*8
先にも述べたように、こうしたカットオフは、大きい方については、余りにも巨大なものは存続が困難だという物理的な制約や、極端に大きい存在を作らないようにしようとする人為的な制約によると考えられる。また小さい方は、理論的にはそれこそ無数に存在しうるけれども、現実には数の上限にぶつかってしまうということを意味しているのだろう。
しかし、物理的な制約を考える必要のない世界、たとえば情報だけが問題となる「評判ゲーム」のような世界については、どういうことになるだろうか。人びとの名声や権力への欲求には限りがないといってもいいだろうし、なんらかの意味で魅力的な存在に対する人びとの評価は、いくらでも集中し増大しうるともいうことができるのではないか。そう考えると、クレイ・シャーキーが指摘していたような多様性の中での自由な選択がベキ分布をもたらすという現象は、まさに「精神圏」において最も純粋に発現すると考えられる。いいかえれば、情報化に伴う「デジタル・デバイド」的格差、すなわち「智」の格差は、「共の領域」においてさえも、いやことによると「共の領域」においてこそ、それ以前の近代化過程で見られた威や富の配分における不均等よりも、少なくとも当面ははるかに大きく、はるかに急速に拡大すると予想すべきではないだろうか。もちろんそのような不均等化がどこまでも続き、結果が固定化するとは考えにくく、いずれは政策的な是正の試みがなされるだろうが、短期的ないし一時的な現象としての評判や流行のベキ分布は、絶えず繰り返されていくのかもしれない。恐らくそこに変化が見られるとしたら、それは意図的な政策の結果というよりは、なんらかの創発的な新秩序の形成の結果によるものと思われる。そうだとすれば、少なくともここしばらくは、ベキ分布の人為的是正(歪曲?)よりは、ベキ分布との共生を我慢することが、あるいはそれ自体をより受け入れやすくするような工夫を講ずることが、情報化の出現局面での政策課題とされるべきではないだろうか。
先にもみたように、『創発(イマージェンス)』の著者スティーブン・ジョンソンは、この十年の間に人類は、「創発の分析をやめて、それを創り出し始めた」、つまり、創発現象を単に研究するだけの段階から人為的に創造しようとする段階に入り始めたと主張している。それが起こっているのは、現在のところはもっぱらコンピューター・ソフトウエアの領域に限られているが、いずれは社会生活のより広汎な領域に及んでいくことが予想される。彼は、マルクスばりに、「これまでのところ創発の哲学者たちは世界を解釈すべく苦闘してきた。だがいまや彼らは世界を変革し始めている」といった言い方までしている。 *1 彼がその先にみているのは、分散的な知性の集まりがグローバルな脳、すなわち集合的知性をボトムアップに創発させてさまざまな社会問題を解決するようになる可能性である。「しかし、群がり(スウォーム)の論理の有望性と同時に危険ともなるのは、それが生み出す高次の秩序を事前に予想するのはほとんど不可能だということだ。」 *2 つまり、どのような秩序が生まれてくるのかは、結局のところ実際にやってみなければ、あるいはコンピューター・プログラムを実際に走らせてみなければ、わからないのである。
しかし、20世紀の悲痛な歴史的経験が十分以上に証明したように、ファシズムや社会主義や都市計画のような、トップダウンの計画や改革の試みの場合は、事前に結果のビジョンをもつことはできても、計画者のビジョンどおりにそれを実現しうる保証や、ビジョンどおりに個々の人間や組織を動かせるという保証は、どこにもない。ないどころか、それが大きく裏切られてしまう可能性の方が、恐らくずっと大きいのである。だからといって、同じ二〇世紀に発生した世界不況や環境問題や示しているように、「市場」の動きに、あるいは個々の人間や組織の欲望の「自由な」発露に、委ねているだけで問題が解決するという保証もない。20世紀の人類は、「政府の失敗」も「市場の失敗」も、共に経験してきたのである。
それではわれわれの希望はどこにあるのだろうか。個人や組織のローカルな行動を、徹底的な監視や規制によってコントロールしきることは不可能である。また可能だとしてもその結果望ましいグローバルな秩序が出現するとは到底考えられない。われわれに可能なのは、たかだか、ローカルな行動を多少変更させるようなルールや、ルールに従おうとするような誘引を既存のシステムに追加することくらいだろう。しかも、その結果としてどのようなグローバルな秩序が創発するかを正確に予想することは、一般には不可能である。
しかし、そのことは「創発」すなわちボトムアップの自己組織化についてのわれわれの知識がほとんどなんの現実的な意味をもたないということではない。スティーブン・ジョンソンのいうように、創発現象の研究が過去数年の間に明らかに新しい局面に入っているとすれば、少なくとも、ソフトウエアのアプリケーションやビデオゲームや芸術や音楽の中には、創発の法則の分析からえられた知識を自覚的に応用した自己組織システムが、すでに人為的に組み込まれ始めているといってよいだろう。現に、新刊書の推薦システムや、音声認識システム、出会い仲介システムなどは、現実に動き出しているのである。
*3
そうだとすれば、今日のわれわれにとって大切なことは、次の三つではないだろうか。
第一に、「人為的」なローカルな自己組織システムの普及と改善に努める一方で、それらがどのようなグローバルな創発効果を「自然的」にもつかについて注目を怠らないこと。
第二に、「共の原理」に立脚したさまざまな智民アクティビズムのローカルな発揮を奨励すると同時に、そこでもそれらがグローバルにもつ秩序の創発効果、とりわけ過去の近代化過程にみられた国際社会での勢力均衡や世界市場での需給均衡に比肩しうるような、地球智場でのなんらかの社会的均衡を創発させる効果、に注目を怠らないこと。
第三に、いずれの場合も、さまざまな自己組織システム間に起こる相互作用を、可能な限り正確にモデル化しシミュレーションを行って、生じうる事態についての事前の検討を試みておくと同時に、現実に望ましくない結果が生じた場合の事後的な対処の方策をとること。ただし、その場合、ベキ分布的な不均等性や多様性、あるいは「デバイド」の発生については、ある程度まで不可避であると覚悟して、それを受け入れる心のゆとりをもつこと。
コンピューターと人類が共進化する情報社会での「社会政策」の中心的な力点は、おそらくここに置かれるべきだろう。
本来ならこの本はここで終わってもよいところなのだが、私が空想している情報社会のより具体的な運営原則の一端をここに記して読者の批判に委ねたいという誘惑に抗しがたく、その素描を箇条書きの形でお目にかけたいと思う。
情報社会の運営原則
1.情報社会においても、いや情報社会においてこそ、ベキ法則はいたるところで発現することを不可避の現実とみなし、それが生み出す不均等効果を除去・軽減するのではなく、むしろ積極的に容認し利用することを大きな目標とする。
2.とくに智のゲームについては、それを社会的に正統な活動として承認し、その結果として生まれる智業間や智民間での「智」の配分が集中度の高いベキ分布を示したとしても、当面はいっさい規制しない。
3.国家には「連邦制」を導入し、思い切った地方分権制の下で、各地方(州)に独自通貨(共貨)の発行権を認め、地方財政の主要財源は、年々の既発共貨の減耗分に相当する新規共貨の発行と、智民による各種の公・共的な財やサービスの自発的な現物提供とによってまかなう。それに加えて、さまざまなグループごとのローカル通貨の発行とそれが媒介する各種のビジネスも自由化する。他方、連邦の運営については、代表民主制をさらに徹底させて、少数の職業的な政治家と裁判官に、立法と司法の仕事をより長期的に委ねる。行政の仕事は、可能な限り民間にアウトソースする。連邦はまた、なんらかの超国家的システムに参加してしかるべきグローバルな貢献に努めるが、「威のゲーム」のプレーヤーとはならないという原則は堅持する。
4.「富のゲーム」については、今後それへの国民的関心は次第に減退し、このゲームが社会的活動のなかで占める比重も小さくなっていくことを想定して、国民を、各人が所有/稼得する富/所得のレベルに応じて、ごく少数(たとえば国民の0.1%以下にあたる十万人)の「連邦民」/「富民」階級と、圧倒的多数(99.9%以上)の「州民」/「常民」階級に、あえて二分する。 *1 企業についても、全国で一〇〇〇社程度の「連邦企業」と、その他の「州企業」に二分する。そして、連邦の歳入の主要部分は、「連邦民」階級に属する個人たちや「連邦企業」と財務省が個別に協議して、納税の額や時期や種類を個別に決定する(多くは使途まで指定する)ことでまかなうと同時に、各種の寄付に対する大幅な奨励措置を導入する。 *2 それ以外には、全国民がもつ国家運営への参加の義務と権利を象徴する意味で、全国一律例外なしの消費税(たとえば10%の)を課する。企業や智業に対しては、年間エネルギー使用料に比例した定率の事業税を課する、など。