1.1. ディーン・フォー・アメリカ

 二〇〇三年の夏、ボストンに住む友人のジョック・ギルから一通の電子メールが届いた。次期大統領候補者のハワード・ディーン(前バーモント州知事)の選挙運動を手伝うことになったので、彼のウェブサイトブログのページをみてくれというメールである。彼らは、政府サービスの受動的な消費者から民主主義の能動的な生産者に自分たち自身を変える、「ポスト放送時代の政治」、すなわち献金した金額よりは献金者の数がものをいう政治、を創り出そうとしていて、それについてのニュースが日本に伝わると、日本の政治にも何か影響が及ぶのではないか興味をもっているという。

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1.2. イトーの唱える創発民主制

 私がひごろ愛読しているメーリング・リストの一つに、「インターネットの祖父」と自称するデービッド・ファーバー *1 が運営している IP (Interesting People) がある。なんでも世界中で二万人を超える情報技術者や情報社会の研究者たちが加入しているというリストなので、情報も豊富だし、ここに投稿するとグローバルな発信効果も期待できる。二〇〇三年の二月に、このリストで、ジョイ・イトーが日本で革命運動を起こすといっているというニュースが流れた。ジョイは一九八〇年代のパソコン通信時代以来の旧知の仲である。そこで、さっそく彼のブログに行ってみたら、たしかにそういう趣旨の発言があったので、それなら私も応分の支援をしたいという趣旨の書き込みを残してきた。 *2

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1.3. 住民プロデューサー

 二〇〇三年、日本経済新聞社は、それまでの「インターネット・アワード」に代えて、「地域情報化大賞」を創設し、一一月には大賞およびその他四つの賞で合計七プロジェクトの受賞が発表された。「IT(情報技術)を利用して、地域の自律的な創意・工夫に基づいて地域経済の活性化や生活の向上、文化の振興などに取り組んでいる先進的なプロジェクトを発掘し、顕彰する」というのがその趣旨である。審査委員長は、国領二郎(慶応大学教授)が引き続き務めている。国領は、その時点では、私が会長をしていた地域情報化を推進するためのボランティア・グループ、CANフォーラム の運営委員長でもあった。そんな縁で、CANフォーラム *1 もこの大賞の候補プロジェクトの推薦に協力した。この大賞の狙いは、少数のすぐれた試みを選抜して授賞することよりも、全国各地で行われている地域情報化の試みについてなるべく多くの情報を集めて公開する *2 ことにあるので、協力のし甲斐もあるというものだ。

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1.4. J-Kids大賞

 日本の例をもう一つあげてみよう。それは、損害保険ジャパン社が事務局を務め、国際大学のグローバル・コミュニケーション・センターが協力し、NTTデータほか12社の協賛で、村井純(慶応大学教授)を実行委員長として行われた、小学校のすぐれたホームページを表彰しようという「J-Kids大賞」プロジェクトで、二〇〇三年の一一月に第一回の表彰式が行われた。

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1.5. オープンソースと共の理念

 このところ、オープンソースのソフトウエアという考え方が、まさに時流に乗った感がある。最近の『ワイアード』誌に発表された記事のなかで、筆者のトマス・ゲーツは、ソフトウエアから始まったオープンソースは、いまや自然科学からリベラル・アーツにいたるすべての学問分野に広がり *1 、アセンブリー・ラインが大量生産に果たしたのと同じ役割を大量イノベーションに対して果たしていると指摘し、「共働化(collaboration)が法人化(corporation)に取って代わる時代に備えよう」と呼びかけている。この見方は、第二次産業革命がもたらしたアセンブリー・ラインと大量生産に対して、それに続く第三次産業革命はオープンソースと大量イノベーションをもたらすとする見方だとも解釈できるが、産業革命という経済革命とは別種の社会革命が続いて起こっているとする見方だとも解釈できる。ゲーツ自身は、これまでの「製造経済」をこれからの「知識経済」と対比しながら、後者の経済でのオープンソースの有用性を強調しているという点では、前者の見方をとっているといえそうだが、私はむしろ後者の見方の方により惹かれる。だが、それについては後であらためて議論することにして、ここでは、オープンソースそれ自体は、「反商業的でも反企業的でもない」ので、このアプローチは「競争と創造性と起業を助長する」というゲーツの見方に、まず賛意を表明しておくことにしよう。

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2.1.1. 社会変化のS字波

 ( *1 )いま、われわれの周りにあってほぼ定着していると思われる、さまざまな社会的事物を思い浮かべてみよう。たとえば、近代的な企業や国家、それらを要素として含むより大きな全体である産業社会や国際社会、さらにそれらをすべて合わせた全体としての近代社会などがそれである。それらの事物は、客観的に存在する実在というよりは、われわれの主観、とりわけ共同主観が作り出している観念的構築物、擬制、あるいは幻想、あるいは実在する他のなにものかがわれわれの意識に落としている影、にすぎないかもしれない。 

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2.1.2. S字波に関する注記:

 自然現象や社会現象をS字波のレンズを通してみようとする試みは、決して少なくない。

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2.2.0. 近代化過程へのS字波的視点の適用

 ここで、S字波のレンズを、さまざまな「倍率」というか「深度」をもって、世界の文明、とりわけ近代文明の進化過程にあてはめてみよう。

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2.2.1. 深度0の眼:諸文明の継起

 そこでまず、もっとも概括的に、上記三つの文明の間の関係を、近代文明を中心に置き、S字波の継起として捉えるならば、図2.2.1のような形が考えられる。つまり、宗教文明の成熟ないし定着局面は近代文明の出現局面と部分的に重複し、智識文明の出現局面は近代文明の成熟ないし定着局面と部分的に重複しているとみることができそうだ。

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2.2.2. 深度1の眼:近代化の三局面

 次に、考察の対象を近代文明だけにしぼって、その進化のS字波を構成している三つの局面(出現・突破・成熟の各局面――その各々がそれに対応する小S字波をもつ――)に注目してみよう。その場合には、近代化の過程は、図2.2.2のように総括できるだろう。 *1

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2.3.3. 深度2の眼:近代化の三局面のそれぞれを対象とする分析

 今度は、S字波のレンズの倍率をさらにあげて、近代化の三局面それぞれについて、それ自体の内部の諸小局面に注意を向けてみよう。この深度で近代化過程を振り返ってみると、ほぼ二百年ごとに始まった新しい局面の中で、ほぼ百年ごとに新しい小局面(小S字波)の出現が始まっているといってよさそうだ。

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2.4.4. より高深度の眼:深度3および深度4の眼

 これまで見てきたようなS字波のレンズを使った局面分析は、さらに深度を上げて、国家化や産業化や情報化の各小局面に適用したり(深度3の眼)、さらにそれらの小局面自体の内部に分け入ったりしていく(深度4の眼)ことができる。

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2.3. 日本の西欧型近代化

 しかし、その前に、以上の議論と、幕末以来の日本の西欧型の近代化――以下では日本の「西欧化」と呼ぶことにしておこう――との関係について検討しておこう。
西欧自体の近代化の三つの局面は、一六世紀の後半に最初の国家化局面が出現して以来、先行局面の「成熟」と後続局面の「出現」が重複しながら、ほぼ二〇〇年毎に新局面(産業化と情報化)の出現をみて今日にいたっている。また、各局面の内部では、ほぼ一〇〇年ごとに新しい小局面が――これまた先行小局面の成熟と重複しながら――出現している。

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3.0. (前章における「S字波のレンズ」を通じて社会変化過程を見る眼についての整理)

 前章で述べた、「S字波のレンズ」を通じて社会変化過程を見る眼について、もう一度整理してみよう。

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3.1.1. 知識の生産様式の変化と「智民」の出現:個別科学(ディシプリン)からトランスディシプリナリーな知識へ

 二〇世紀の後半以降、ある重要な変化が社会的な知識の生産様式に起き始めた。マイケル・ギボンズらはそれを、大学に制度化された科学の諸ディシプリンの中で閉じていた知識(より端的には「科学」そのもの)の生産様式――彼らのいう「モード1」――から、トランスディシプリナリーな性格をもちつつ、問題意識の面でも生産に参加する主体の面でも、より開かれた、非均質的かつ流動的で、社会的に分散したシステムに制度化された、「モード2」への転換だと捉えている。 *1 彼らのみるところでは、その背景には、第二次世界大戦後に生じた高等教育と研究のマス化があった。知識の生産様式の転換は、その予期せざる結果として生じたのである。すなわち、

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3.1.2. 最初の智民としてのテクノクラート(スーツ)

 このような見方は、たしかに一面の真実を衝いている。しかし、社会的な知の生産や流通に生じている変化は、ギボンズらのいうモード1からモード2への転換よりも、さらに広くかつ深いものがあるように思われる。

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3.1.3. ハッカーズ:対抗智民

 これに対し、いわゆる「ハッカーズ」の第一世代は、時期的にはテクノクラートたちと重複しつつ、第一次情報革命の「出現の出現」局面に生まれてきた、テクノクラートに対する「対抗文化」の担い手とでもいうべき存在である。スティーブン・レビーの名著『ハッカーズ』 *1 の記述に従えば、彼らの多くはMITに代表される東部アメリカの一流大学の大学院生であって、IBMやCDCなどの情報系スーツが支配していた大学のコンピューター・センターで、自分たちがコンピューターを自由に、そしてより使いやすい形で使えるように、コンピューター・システムを「ハック」しようとしていた人びとだった。しかし彼らは、そのルーツを高等教育・研究機関にもっていたという意味では、同時代のテクノクラートたちと同根である。他方、コンピューター科学は一つの「ディシプリン」として確立するには若すぎ、ハッカーたちの多くは博士の学位を取得する前の大学院生か、あるいはたかだかポスドク程度の地位にあったという意味では、彼らは、モード1の知識生産者たちの確立された世界からは疎外されていた。つまり、その意味では彼らとテクノクラートの間には、ある連続性があった。そのため、一九五〇年代から六〇年代にかけての――つまり第一次情報革命の「出現の出現局面」での――テクノクラートとハッカーたちは、コインの表と裏のような相互緊張/補完関係にたっていたのである。 *2

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3.1.4. ギークス:智民の進化

 では、ギークとは何者か。ギークとはもともと、他に芸がないために、生きている鶏や蛇の首を食いちぎって見せるサーカスの最下級の芸人を意味する侮蔑語だった。それが、(とくに高校などで)社会的に受け入れられないイデオロギーや知的傾向や趣味をもつ嫌われ者をさす言葉となり、とりわけコンピューター好きの「ナード(オタク)」たちに対しては「コンピューター・ギークス」という呼び方が使われるようになった。米国の高校では、スポーツ選手の「ジョックス」たちが最上流階級に属し、その次に位置するのが成績が良くて一流大学への進学をめざして勉強に励む「プレップス」たちである。そしてその他大勢が続き、最下層に位置して無視や蔑視、あるいはいじめの対象となっていたのがギークやナードたちだった。しかし、一九九〇年代に入るころから、ギークたち、とりわけコンピューター・ギークたちは、この言葉を肯定的あるいは反抗的な意味で自称として積極的に使い始めた。現在では、ギークはむしろ尊称としてのひびきをもつようになり、最上級のギークを意味する「イーバーギーク(超ギーク)」などといった言葉さえ生まれているほどである。 *1

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3.1.5. ギークスから子供たち(キッズ)へ

 もっとも、ギークスの進化はそこで止まりはしなかった。ウォールストリートの内幕を暴露した『ライアーズ・ポーカー』 *1 やジム・クラークに密着取材した『ニューニュー・シング』 *2 で文名を馳せたマイケル・ルイスが、二〇〇一年に出版した『ネクスト』 *3 で描き出している新しい変化の姿には、さらに驚くべきものがある。 *4

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3.1.6. 新型の社会集団の誕生:「ネットワーク」とNGO-NPO-CSO

 智民のあり方の変化と密接に関連しているもう一つの要因は、情報化と共に出現してくる新しい社会的集団ないし主体――私の言葉でいえば「智業」――である。既存のものとは質的に異なる社会的主体の形成が人びとに注目され始めたのは、テクノクラートのような「智民」の台頭よりは少し遅れて、一九七〇年代の後半以降のことだった。 *1

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3.1.7. 社会システムとしてのネットワーク

 ところで、「ネットワーク」(もしくは「グラフ」)は、ある数学的な対象でもある。数学的な対象としてのネットワーク(もしくはグラフ)は、おおまかにいえば、いくつかの「線」によって結びつけられた「点」の集まりである。もう少し堅苦しくいえば、「点」の集合のそれ自身に対する直積集合を考えたとき、ネットワークはその部分集合として表される。その場合には、部分集合に含まれる元が「線」に対応しているのである。ひとつの例としては、都市間道路網によって結びつけられた都市の集まりを考えてみるとよい。たとえば、図3.1.1には、5個の「点」の集合の直積としての5×5型行列が示されていて、その要素は0か1のいずれかの値をとっている。そして、要素の値が1である場合には、それに対応する行と列の「点」を結びつけている「線」が存在すると想定している。「線」に方向性がないとすれば、この行列は、図のような対称行列になる。また、ある「点」を自分自身と結びつける「線」は存在しないものとすれば、この行列の対角線にあたる要素の値は、これも図に示されているように、すべて0になる。同じネットワークを行列ではなくグラフの形式で表現したものが、図3.1.2である。この図において、グラフの「点」を「都市」と、「線」を都市間道路と解釈するならば、都市とその間を結ぶ道路のネットワークの姿が、行列表現の場合よりは、直観的によりイメージしやすくなるだろう。

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3.1.8. スマートモブズ:第一次情報革命の「出現の成熟」局面での智民

 しかし、その可能性について考えるためには、第一次情報革命の中での局面の移行に伴って起こる、智民のあり方のさらなる進化について見ておくのが適切だろう。

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3.2.0. コンピューターとネットワークのあり方の変化

 前章で述べたように、私の基本認識は、二〇世紀後半以来、第一次情報革命と第三次産業革命が同時並行的に進行しているというものである。第三次産業革命は、IT(情報技術)およびコンピューター産業を主導技術および主導産業として出現し、二一世紀初頭の現在、その「出現の成熟」の局面に入りつつある。つまり、コンピューター産業自体は、その成熟局面に入りつつある。同時に、第三次産業革命は、全体としてみれば突破の局面をも迎えつつあって、これまでのコンピューター産業に代わる新しい主導産業の出現が期待され始めている。その有力な候補としては、新素材の源泉としてバイオ技術やナノ技術に立脚する産業と、それを利用した人間とのコミュニケーションやコラボレーションを行う能力を備えた新しいタイプのロボットや、誰でもそれを使用して自分の好みの機械を製造できる万能工作機械産業などがあげられそうである。そして恐らく今世紀の後半には、認知科学の技術化、産業化が生み出す新しいサービス産業の展開を通じて、成熟の局面に歩みいっていくだろう。(図3.2.1参照) *1

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3.2.1. モバイルでユビキタスな「解放システム」

  *1 コンピューター産業の展開については、これまではハーバード大学ビジネススクールのリチャード・L・ノーランの「ステージ理論」が標準的な見方だとされてきている。 *2

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3.2.2.0. ウェアラブル・コンピューターと知覚するモノたち(成熟局面でのコンピューター(とそのネットワーク)の主要な特徴)

 以上のような考察を前提として、成熟局面でのコンピューター(とそのネットワーク)がもつようになる主要な特徴を、三つにまとめてみよう。コンピューターの「(再)身体化」、「環境化」、「リアル化」がそれである。

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3.2.2.1. (再)身体化

(再)身体化
 ラインゴールドの『スマートモブズ』のなかで、「P2P」や「パーベイシブ」、あるいは「バーチャル・コミュニティ」という言葉と並んで、いやそれ以上に頻繁にでてくるのが、人間が自分の身にまとう、あるいは装着するコンピューターを意味する「ウェアラブル・コンピューター」という言葉である。先に見たギルダーは、これからのコンピューターは「ポケット・コンピューター」になるという言い方をしていたが、ラインゴールドはもう一歩先をみている。つまり、かつてはわれわれの身体、とりわけ脳の外にある情報処理機械として生まれてきたコンピューターが、今ではわれわれの身体の一部となる方向に向かって進化するようになった、コンピューターの「(再)身体化」とでもいうべき流れを、彼は捉えているのである。そうだとすれば、「ウェアラブル」のさらにその先には、人間の身体の中に「埋め込まれた(エンベッデド)」コンピューターやマイクロマシンの時代が待っているだろう。つまり人間は「サイボーグ」化していくのである。
そこまで行くのはまだ先の話だとしても、すでに現在でも、ラインゴールドの見るところでは、

 パーベイシブでウェアラブルなコンピューターは十年以上も前から予言され開発されてきたが、それを可能にする部品の価格は、ようやく変化の波を引き起こせるぐらいにまで低くなり始めたところだ。いい加減な試作品が何年も出され続けた後で、ウェアラブル・コンピューターは、いまようやくファッション・アイテムになりそうなところにまで来た。最初の「ウェアラブル・コンピューティング・コミュニティ」が、いくつか出現しつつある。 *1
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3.2.2.2. 環境化

環境化
 マンの理想には、たしかにわれわれの胸にひびくものがある。また、主権者としての尊厳な個人が、環境を主体的にコントロールするという理念は、マン自身が認めているように、近代の「啓蒙主義の第一原理」そのものである。しかし、私としては、まさにそのゆえに、マン流の理想に対しては多少の留保をおかざるを得ない。なぜなら、他人がたとえば環境を商業広告で満たす形で環境のコントロールを行う行為も、それに対抗して、それをフィルターした「媒介現実」を再構成するという行為、すなわち人間が「補助具によって肉体を自分自身が主権者としての支配力を持つ空間へと変換する」行為も、どちらも環境の主体的なコントロールの試みだといわざるをえないからである。

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3.2.2.3. リアル化

リアル化
 かつて、コンピューターおよびそのネットワークが生み出すもっとも新奇な特性の一つとして、それが人間にとってゆくゆくは現実以上に強い現実性(リアリティ)をもってせまってくる「仮想現実(バーチャル・リアリティ)」に満ち満ちたバーチャルな環境、すなわち「サイバースペース」を生み出すことがあげられていた時期があった。サイバースペースは現実空間(リアルスペース)とは本質的に異質な空間であって、人間はその中に「ジャックイン」して「全身没入的(イマーシブ)」な新しい経験をすると考えられたのである。コンピューター・ネットワーキングのパイオニアのひとり、ジョン・ペリー・バーローは、米国で六二年ぶりに新しい通信法が制定された直後の一九九六年二月八日、『サイバースペース独立宣言』を起草して、人類にとってのこの新しい生活空間の誕生を世界に告知すると共に、そこが既存の世俗的権威の支配からは自由な空間であるべきことを宣言した。以下に、その一部を引用しておこう。

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3.3.0. 戦後日本の社会変化

 以上、この章での議論はおもに、アメリカでの事態の進展を念頭において行われてきた。それでは、二〇世紀後半の日本で起こったことは、このような文脈に照らすとどんな解釈ができるだろうか。私は最近、自分よりも十三歳年下の笠井潔と三六歳年下の東浩紀との論争(東/笠井[二〇〇三])を、ほとんど異星人の論争を傍観しているような気分で、しかし実に興味深く読んだ。また、そこで紹介されていた岡田斗司夫の『オタク学入門』(岡田[一九九六])を読んで、これまた実に嬉しいショックを受けた。さらにその後、この世に氾濫するトンデモないものをウォッチングする団体「と学会」の会長山田弘の新作『神は沈黙せず』(山田[二〇〇三])を驚嘆しながら読み、この人物こそ日本のオタクの代表的人物の一人だという感を深くした。 *1

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3.3.1. 1945-1990:形成局面:戦後民主主義者→新左翼→新人類

 この時代は、アメリカでいえばテクノクラートとハッカーたちが互いに緊張・補完関係を作り出していた、第一次情報革命の「出現の出現」局面にあたる。敗戦と占領下の日本では、既存の社会システム――軍国主義的国家、独占的財閥、寄生地主制、家父長的家族制度など――が、それを支えてきたイデオロギーとともに破壊、解体され、昭和憲法に象徴される「一国平和主義」と「戦後民主主義」、および「個人主義」の制度とイデオロギーによって置き換えられた。これらは、戦後の日本に与えられた、近代化=西欧化の「大きな物語」のアメリカ的改訂版だったということができよう。 *1 さらに一九六〇年代の「国民所得倍増計画」や「全国総合開発計画」を嚆矢とする高度経済成長と土建国家化の戦略が、その経済的基盤を提供した。

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3.3.2. 1975-2020 出現局面:狭義オタク→広義オタク→ネッター

 この時代は、アメリカでいえば、ギークスが台頭しさらにその後をキッズたちが追うようになった、第一次情報革命の「出現の突破」局面にあたっている。

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3.2.3. 2005-2050 突破局面:スマートモブズ(?)

 それでは、智民の大衆化ないし群衆化がさらに進むと思われる日本情報社会の「突破」局面――それは時期的には、アメリカでの第一次情報革命の「突破」とほぼ同時進行している――には、どのような展開がみられるだろうか。すでにみたように、ラインゴールドが予想したのは、「スマートモブズ」の台頭だった。そしてラインゴールドは、その最初の形態の一つを二〇〇〇年初めの渋谷駅前に群がる「親指族」に見いだした。

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4.1.0. 近代社会の三つの原理と領域:公・私・共

 第一章で言及しておいたように、近代社会には、これまで主権国家の支配する「公」の領域と、私人に委ねられた「私」の領域があり、それぞれの領域は異なる原理によって律せられるものと想定されていた。しかも、「国民国家」の成立してくる過程で、国家以外のすべての在来型の「社団」は衰退し消滅して、国民は「個人」として国家に直接向き合うようになると考えられたのである。もちろん、そうはいっても、完全な社会主義国家ならいざ知らず、近代主権国家はすべての国民を公務員として雇用して生活費を支払うという選択肢はとらなかったので、多くの個人たちは自分で生計をたてる必要があったが、その場合でも市民社会における「私」の領域の理念は、各個人が独立の商品生産・交換者として取引関係を結ぶというものだった。

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4.1.1. 通時的視点と共時的視点

 近代文明の進化過程を通時的に概観するならば、最初に台頭してきた近代化の「核主体」とでもいうべき集団は、「公の原理」に立脚する主権国家だった。そして産業化と共に「私の原理」に立脚する産業企業が台頭してきたのだが、主権国家は、結果的に産業企業をも自らの正統的な下位主体の一種としてその統治下に取り込み、それと共生・共進化する道を選んだ。しかし、「国民」に認めたような「参政権」は、企業(やそれ以外の中間的な集団)に対しては明示的には与えられていない。 *1 さらに、情報化が進展する過程で、主権国家が、後述する「共の原理」に立脚する情報智業をも自らの正統的な下位主体の一種としてその統治下に取り込み、それと共生・共進化する道を選ぶ可能性は十分にあると思われる。もちろん、産業化が国家の「国民国家化」への大きな契機となったように、国家は(同時に企業も)、智業との共生・共進化過程で自らのさらなる自己組織化――超国家的な集団の創発をも含めた――を進める可能性が高い。

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4.1.2. 公の原理と領域

 国家が立脚する公の原理の根本は、他の国家や自国の国民によって正統視されている脅迫・強制力、すなわち「公権力」の行使にある。 *1 その具体的な発現を通じて国家がめざす役割というか目標は、対外的には、国際社会においてまず主権国家としての独立を達成・維持することであり、それが実現すると、「威のゲーム」で好成績をあげて「国威を増進・発揚」することである。(それは、重要な公共財の一つである安全保障を国民に供給することにもつながる。)対内的には、その他の公共財(公序・治安、各種の法制度、教育、道路、公開が適切と考えられる情報や知識など)を「全国(民)にあまねく、そしてひとしく」、あるいは「公平無私」に供給することである。 *2 一八九一年、山県有朋総理大臣が第一回帝国議会で行った「帝国ノ国是ニツイテノ演説」の中で、「内ニハ国民保安ノ道を盡クサセ給ヒ、外ニハ国威ヲ中外ニ燿カサンコトヲ望マセ給ヘタル」天皇の大御心を日本の国是だとしたのは、まさにこの理念を端的に表明したものといえるだろう。 *3 以下、単に「公の原理」という時には、根本原理としての「脅迫」よりも、それが現実の世界に適用されるさいの「国威の増進・発揚」や「公共財の公平無私の供給」などを、もっぱら意味することにしよう。 *4 そして「公の領域」という言葉では、そのような国家の行為が行われる場のことを意味することにしよう。

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4.1.3. 私の原理と領域

 「私の原理」という言葉でひとがまず想起するのは、他人の支配や干渉を受けずに自らの生活を主体的に営もうとする行為様式やその権利だろう。だが、そのような主体的な営みが可能になるためには、その手段を自ら所有し使用する能力や権利を各個別主体がもっていなくてはならない。公の原理の根本が、他主体の行為を――脅迫や強制を通じて――制御、支配するところにあるとすれば、私の原理の根本は、自分自身の行為を遂行し律する能力と権利にある。なかんずく、「私有財産」の所有/使用者としての「私人」が、自分自身の判断で、それを手段として使用して、自分の設定した目標を実現するための行為に従事する能力と権利にある。近代文明社会は、国家による「公の原理」の発動をまず制度的に承認した後で、この意味での自律的な行為の原理としての「私の原理」、とりわけ私有財産の所有/使用権を制度的に承認するようになった。

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4.1.4. 共の原理と領域

 情報化以前の近代社会では、国家の意思を決定し実行する「政府」と、私人としての企業や個人が行うもっとも主要な社会的活動としての交換の場となる「市場」が、二つの主要な構成要素とみなされるようになった。そして前者が公の領域と原理を、後者が私の領域と原理を、それぞれ代表するものとみなされた。しかし、公私の領域が互いに相互補完するだけで社会は問題なく動いていくのだろうか。あるいは、いちおうはそれで足りるとしても、近代化の進展は、さらに新しい第三の原理とそれが支配する領域を生み出すことで、社会のあり方をより望ましい――同時により複雑な――ものにしていく可能性はないものだろうか。

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4.2.0. 可視社会の中での監視とプライバシー

 以下この章では、共の原理が台頭してくる情報社会の、いくつかの注目すべき側面について考えていこう。最初に取り上げるのは、「監視」の問題である。第三章でみたように、第三次産業革命の出現局面を主導したのはコンピューター産業だった。そして最初に(つまりコンピューター産業自体の出現局面で)注目されたコンピューターの能力は、その高度な演算機能だった。その次に(つまりコンピューター産業の突破局面で)注目されたのが、インターネットに代表されるコミュニケーション機能だった。そしていま(つまりコンピューター産業の突破局面で)注目が集まりつつあるのが、高度な演算機能とコミュニケーション機能を当然のこととして前提した上での、モバイルでユビキタスなコンピューター群がもつセンサー機能である。こうしてコンピューターは、私たちの社会を、どこでもなんでも見聞きできる可視/可聴社会に変えつつある。以下ではその傾向を単に「可視社会化」と呼ぶことにしよう。 *1

4.2.1. 監視とその二つの顔

 この傾向は、時に「監視社会」化と呼ばれることもある。 *1 可視社会化が推進している技術の中でも、現在の局面でもっとも顕著な発達を見せているのが監視の技術だからである。国家や企業が、高度なセンサー能力を駆使して、テロリストから犯罪者、さらには国民や消費者一般を監視してデータを収集分析し、その行為を制御するディストピアが出現することになるかもしれないという悲観的なビジョンが、そこにはかぶさっている。それらは、かつてオーウェルの『一九八四年』やハックスリーの『すばらしい新世界』に描き出されたディストピアの、情報社会版である。

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4.2.2.プライバシーを護る仲介者

 だが、その場合でも、たとえば企業や病院、教育機関などによる個人情報の収集と利用、とりわけその濫用と悪用には――政府による個人情報の収集とならんで、あるいはそれ以上に――一定の歯止めをかける必要がありそうだ。私は、そのための仕組みの一つとして、共の原理に立脚したグループ、それもこの場合には単なる群がり(スウォーム)ではなく、意思決定と行為の明確な中心をもつグループを、仲介者として利用することを提唱したい。

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4.3.1. コモンズと共貨:「コモン・リソース」と「フリー・リソース」

 ローレンス・レッシグの注目すべき新著『アイデアの未来』は、その邦訳の題名が『コモンズ』(レッシグ[二〇〇三])となっているところからもわかるように、リソース――つまり、この本でのこれまでの用語法でいえば、「主体が目標を実現するための手段として利用する物的あるいは情報的な財」――の自由(フリー)な使用と、それを可能にする社会システムとしての「コモンズ」の観念が中核となっている。 *1 では「コモンズ」とは何か。レッシグはいう。

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4.3.2. ハーディン対オストローム

 一九七〇年代の半ば、どこまでも続くと思われていた右肩上がりの高度成長があっけなく終焉し、石油危機に象徴される「資源有限時代」の到来が叫ばれ始めたころ、思想的痛棒を喰らった思いをさせられたのが、アメリカの生物学者ガレット・ハーディンによる議論 *1 であった。以来、ハーディンの呪縛を私がようやく逃れられるまでには、四半世紀以上の時間がかかった。 *2

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4.3.3. ローカル通貨

 共の原理に基づいて行動するグループでも、そのメンバーやグループ相互間で財やサービスの交換を行う必要や有用性を見いだすことが多い。すべての手段を自分たちだけで作り出したり、目標の実現に必要なすべての行為を自力でのみ行ったりすることは、ほとんどの場合不可能だからである。そうだとすれば、そうした交換――もちろんそれは非営利目的の交換だが――を促進するために、価値の尺度や交換・支払い手段として機能しうる「貨幣」に類似した手段を、一つもしくはいくつかのグループの合意によって作り出し利用することには、十分な意義がある。私は、そのような手段のことを「共貨」と呼んでいる。将来――恐らくは「智民革命」を経過した後で――共の原理が、既存の公私の原理を補完する第三の原理としてその正統性を認められるようになった暁には、共貨の制定と使用は、共の原理に立脚するグループの基本的な権利の一つとみなされるようになるだろう。

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4.3.4. 共貨の基本的特質

 以下に述べる「共貨」は、上述の意味での「ローカル貨幣」の一種に他ならない。それは、共の原理に立脚するさまざまなグループ――とりわけ、「地方公共団体」  *1 ないしその認可を受けたグループ――が発行権をもって独自に発行するローカル貨幣である。その発行や使用をめぐるルールは、一つにかぎられているわけではなく、さまざまな変種が考えられる。とはいえすべての共貨には、次のような共通の特質をもたせることが望ましいように思われる。

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4.3.5. 共貨への期待と障害

 上述したような共貨の仕組みは、地域の発展のための強力な手段として機能するだろう。今日の情報社会は、「ファーストマイル」のための、光と無線による常時接続、双方向、広帯域の情報通信インフラを必要としている。しかし、それを地域のすべてにわたって面的に展開しようとすれば、その構成要素となる各種の機器の費用が年々急激に低下しているとはいえ、やはり相当額の資金を必要とするだろう。共貨は、そのための資金の調達と費用の地域内での分担の途を準備してくれるのではないだろうか。

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5.1.0. 創発(イマージェンス)と同調(シンク)

 ここまでの議論を要約すれば、近代化とは、主体(組織や個人)の目標達成のための「パワー」の、不断の増進(エンパワーメント)過程を意味する。そして、この近代化過程は、大きく見ると、武力(強制・脅迫力)が集中的に増進する国家化局面から、経済力(取引・搾取力)が集中的に増進する産業化局面を経て、知力(説得・誘導力)が集中的に増進する情報化局面に入ってきている。その間に、近代主権国家は、「公の原理」に加えて「私の原理」を、みずからの正統的な構成原理としてまず取り込んだ。そして情報化局面に入った今日では、さらにもう一つの原理としての「共の原理」の重要性が自覚され始め、それをいかに正統化しうるかという課題が、近代文明が成熟に向かう上では避けて通れない挑戦となっている。

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5.1.1. 創発(イマージェンス)

 気鋭の評論家スティーブン・ジョンソンは、多くの話題を投げた著書『創発(イマージェンス)』 *1 の中で、粘菌やアリ、人間の脳、大都市、ソフトウエアなどの例をあげながら、特別な計画者・管理者がいないのに、「群れ」や「群がり(スゥオーム)」をなしているそれ自体としては相対的に低能力の個々の主体(エージェント)が、相互にあるいは環境との間に示す単純でローカルな規則に従う行動の中から、複雑でグローバルな秩序(場合によっては「超個体」の形成とでも呼びたくなるような秩序)や高度な知性 *2 (場合によっては「集合知性」あるいは「超精神(スーパーマインド)」などと呼びたくなるような知性)が、「ボトム・アップに自己組織化」されてくる、つまり「創発」されてくると論じている。 *3 そのようにして、アリは群落(コロニー)を創り、都市生活者は近隣住区を創り、アマゾンの単純なパターン認識ソフトウエアは新刊書推薦システムを創るのである。 *4 それらの場合には、それを観察している第三者には、複雑でグローバルな秩序を示す全体――あるいはその中枢部分――が、それ自体一個の合理的な計画や行為の主体として、そのような秩序の発現をあたかも事前に計画したり時々刻々管理したりしているように見えるかもしれないが、そういうことはないのが「創発」的事象の特性なのである。 *5 もちろん、個々のエージェントはそのようなグローバルな秩序について、事後的にさえなんの理解をももっていないことが多い。それを事前に計画しているというにいたっては、それこそ論外である。 *6

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5.1.2. 同調(シンク)

 それにしても、このような「創発」は、なぜ、いかにして、可能となるのだろうか。数理生物学者のスティーブン・ストロガッツは、『シンク』と題されたその近著 *1 のなかで、創発性のさらに背後にあると見られるある普遍的な仕組みの一つ、「同調(シンク)」について述べている。

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5.2. ノンゼロ性と協力

 同調にもとづく秩序の創発が、集団的行動にはほぼ普遍的にみられるとすれば、スマートモブズはこれからの情報社会にどのような社会秩序を創発させるのだろうか。おそらくその形も内容も、成熟した近代社会の秩序にふさわしい多様で豊かなものになると想像されるのだが、その内容を具体的に予想することは、ほとんど不可能だろう。しかし、新しい秩序が向かう方向性については、多少とも意味のある予想が可能かもしれない。

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5.3.0. ベキ法則

 これまでみてきたように、今日の近代文明では、国家化の傾向には変質が見られる一方で、産業化が成熟すると共に情報化が出現しつつある。さらに「深度」をあげた眼でみるならば、第三次産業革命と第一次情報革命とが互いに並行して、「出現の成熟」と同時に「突破の出現」の局面に入ろうとしている。そうした社会変化を今後しばらくの間主導していくと思われるのが、モバイルでバーベイシブになっていく情報通信デバイスとスマートモブ化し動物化する智民たちである。

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5.3.1. 貢献と報酬のベキ分布

 しかし、事態はそう単純ではない。なるほど近代文明社会の進化は、貴族と平民、ブルジョアジーとプロレタリアートといったような、社会の構成員の質的な「階級分化」や「差別」は消滅させるような平等化の傾向をもっているかもしれない。しかし、それが同時に量的な平等をももたらすというわけには、必ずしもいかないらしいのである。

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5.3.2. 社会的ネットワークとベキ法則

 社会の中に広くみられるベキ分布は、貢献や報酬だけでなく、人々が社会活動を営むなかで作り上げる人的なつながりにもみられる。しかし一九五〇年代に始まったネットワーク分析の研究史のなかで、ネットワーク、とりわけ社会的ネットワークのリンクの分布がベキ法則に従っている場合が多いことが発見され、多くの研究者に強い衝撃を与えたのは、一九九〇年代の後半というごく近年のことだった。そこで、社会的ネットワークにみられるベキ法則について考える前に、研究史を手短に振り返っておこう。

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5.3.3. ベキ法則への対処

 ベキ法則に従っている事物の分布が、単に異常な不均等性を示しているだけでなく、「スケール・フリー」性まであるとすれば、社会改革を志向する人びと――平等主義者であれエリート主義者であれ――にとって、事態はさらに不愉快なものになるだろう。一部の大金持ちを倒してみたところで、残る人々の間にやっぱりベキ法則が発現する。多数の怠け者を追放して少数精鋭の集団を作ろうとしてみたところで、その中にもやっぱりベキ法則が発現する。その種の事態がもっとも典型的にみられるのは、「私の原理」にもとづいて互いに結びつき相互作用している「私の領域」の事物が示す分布、すなわち富あるいは所得の分布や企業の規模別あるいは市場シェア別分布などだろう。

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5.3.4. 物理的制約下の正規分布から情報自由下のベキ分布へ

 P2Pの唱道者の一人、クレイ・シャーキーは、インターネットの世界でベキ法則の発現が見られる理由について、それを、裏切り者が現れたからだとか、勝手知らずの新入りが増えたからだといった、もっぱら個人的な行動のせいにするのは誤りだと主張している。 *1 真の理由は、多様性と選択の自由が不平等を生み出していることにあり、選択しうる対象の範囲や多様性が大きくなればなるほど、また選択に参加しうる人々の範囲や資格に関する制限が少なくなればなるほど、選択される結果に見られる不平等は大きくなるというのである。言い換えれば、人々がたくさんの選択肢の中から自由な選択ができる社会では、誰一人として積極的にはそうする気がないとしても、各人が個別に行う選択の結果として、全体の中のごく小さな一部が不釣り合いに多くのトラフィック(や注目や所得)を引き寄せるといった結果が生じてしまう。ただし、自由な選択といっても、各人の選択が他人の選択とは独立に、つまりまったくランダムになされる場合には分布の不均等性は発生しないのであって、ベキ法則に従う分布が発生するのは、各人の選択が独立ではない場合、つまり身近な他人の選択に影響される場合に限られる。とはいえ、他人の選択に大きく影響される必要はない。各人の選択が、ほんのわずかな程度、他人の選択から影響を受けるだけでも、正のフィードバック効果が働くために、結果の分布の形は劇的に変化してベキ法則に従うようになるのである。 *2

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5.4. おわりに

 先にもみたように、『創発(イマージェンス)』の著者スティーブン・ジョンソンは、この十年の間に人類は、「創発の分析をやめて、それを創り出し始めた」、つまり、創発現象を単に研究するだけの段階から人為的に創造しようとする段階に入り始めたと主張している。それが起こっているのは、現在のところはもっぱらコンピューター・ソフトウエアの領域に限られているが、いずれは社会生活のより広汎な領域に及んでいくことが予想される。彼は、マルクスばりに、「これまでのところ創発の哲学者たちは世界を解釈すべく苦闘してきた。だがいまや彼らは世界を変革し始めている」といった言い方までしている。 *1 彼がその先にみているのは、分散的な知性の集まりがグローバルな脳、すなわち集合的知性をボトムアップに創発させてさまざまな社会問題を解決するようになる可能性である。「しかし、群がり(スウォーム)の論理の有望性と同時に危険ともなるのは、それが生み出す高次の秩序を事前に予想するのはほとんど不可能だということだ。」 *2 つまり、どのような秩序が生まれてくるのかは、結局のところ実際にやってみなければ、あるいはコンピューター・プログラムを実際に走らせてみなければ、わからないのである。

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5.5. 付記 情報社会の運営原則

 本来ならこの本はここで終わってもよいところなのだが、私が空想している情報社会のより具体的な運営原則の一端をここに記して読者の批判に委ねたいという誘惑に抗しがたく、その素描を箇条書きの形でお目にかけたいと思う。

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あとがき

 本書は、『情報文明論』(一九九四)と『文明の進化と情報化』(二〇〇一)に続く、情報社会のさまざまな側面を対象とする学際的な科学としての「情報社会・学」の構築に向けた、私の第三作になる。私が敬愛してやまない故村上泰亮にとってのライフワークは、「産業社会・学」の構築にあったと私は考えている。その後を継いで、「情報社会・学」の体系化に向けての第一歩を踏み出したいというのが、私のささやかな願いである。

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