サールからデリダへの誤った手紙

山内康英

情報社会学とポストモダン
 情報社会学とポストモダンは相性が良くない。その理由ははっきりしていて、(1)ポストモダンは『近代はもう終わった』と言っている。しかし情報社会学は『現在の情報社会が近代の現在の局面だ』と言う。(2)ポストモダンの人たちは好んで左翼的なスタンスを取る。しかし、情報社会学研究所の所長は、60年代にソ連の経済体制を深く研究した結果、マルクス主義とは縁を切って情報社会学を構築した人だ。所長の仲間にもロストウ流の近代主義者や元全学連の右翼がいる。(3)ポストモダンの哲学の人の書いた文章は理解の難しいことが多い。実際のところポストモダン理論について悩みを持つ人は多い。(当研究所の推定で日本人口の約0.03%。)しかし心配する必要はない。同じ悩みを抱えた人たちは世界中にいる。今回は高名なポストモダンの哲学者ジャック・デリダと分析哲学者であるジョン・サールの間にあった歴史的な論争を紹介したい。

サールとデリダの論争
 まず最初に『katosのブログ』の2011年12月01日の記事『ジョン・サールとの対話』からサールの批判を引用する。katos氏は、Gustavo Faigenbaum, Conversations With John Searle, Libros En Red, 2001から次の一節を引用している。 katos氏のHPはこちら

『デリダは,西洋の知的な活動,西洋哲学に伝統的な対立があれこれみつかると言ってる.たとえば,字義的なものと隠喩的なもの,事実と虚構,男と女とか,そういう対立.もちろん,いろんな二元論的な対立があるという点では彼は正しい.さらにデリダが言うには――ぼくは疑わしいと思うんだけど――つねに一方が他方よりも「優越(privileged)」してるそうなんだ.「優越」というのはデリダの言葉遣いなんだけど.つねに一方が他方よりもイイってことだね.字義的なものは隠喩的なものよりよくて,男性は女性よりいいとか.それで,いつでもこんな風に一方が他方よりも優越してるらしい.まあ,なかにはたしかに正しいのもあるよ.つまり,偽よりも真の方がいいのは明らかでしょ.
 でも,デリダはこれにつづけて珍妙なことを言い出すんだ.こんな具合.A とB,2つの項があって,AがBに優越してるとき,デリダはそれをひっくり返してホントはBの方が根本的な項だと示したがる.どんな風に変形して転倒していくかっていうと,こんな感じ.彼いわく,「Aを前提に与えられてるとき,Bはいつでも可能だ」たとえば,字義的な発話が前提に与えられてるとき隠喩はつねに可能だ,非・虚構が前提に与えられてるとき,虚構はつねに可能だ,とか.それにつづけてデリダが言うには,「しかし,この可能性は必然的な可能性だ.」 あるものが虚構じゃないって前提が与えられてるとき,それが虚構だというのは必然的な可能性だっていうんだ.』

サールのこの一節は、デリダの脱構築について述べたものであろう。実際にデリダは『有限責任会社』で「脱構築」をつぎのように定義している。

『脱構築は、二重の身振り、二重の学、二重のエクリチュールによって、古典的二項対立の転倒と体系の一般的転移との両方を実践しなければならない』

これを見るかぎり、(当然ながら)じつはサールはデリダを良く読んでいたのだ、ということになる。ここで問題にすべきなのは、デリダの本当の意図として、この「古典的二項対立」とは何であったのか、ということだ。『声と現象』 はデリダの初期の作品で、フッサールの現象学の意義深い受容と批判である。その結論は、フッサールが観念論、つまり理性の内在性=神学的な本有論の枠から脱していない、ということであった。しかしデリダは、(このある種の神学的な)前提を受け入れたうえで、どこまで西欧哲学が成り立つのか、をテーマにしたように見える。デリダの関心は、「内心の声=パロール」が有する「文字言葉=エクリチュール」に対する優位性とは何か、という点にあった。なぜなら「声」は(その瞬間には―発言者の―何ほどかの)理性を反映しているからである。そして聖書(Ecritures)とは全き神の声である。この論理に従えば、エクリチュールにおけるパロール的な理性とは何か、が問題になる。

デリダがサールと議論したかったのは、じつはこの分析哲学と啓示的理性哲学(とでも言うべきもの)の二項対立だった、としたらどうであろうか。たとえば、カトリシズムと科学的社会主義という二項対立が1950年代のフランス社会の関心のなかにあったことは間違いが無い。そしてこれは大陸系の哲学者にとっては抜き難い、しかし英米系の哲学者にとってはプロテスタント革命と科学哲学を経由した分析哲学として解決済みの、そしてそれ以外の文化的背景を有する社会科学の研究者にとっては無関係の――と言って悪ければアカデミックな――議論だ、ということにはならないであろうか?

脱構築というのは哲学的な議論の一般的な技法として理解されている。しかしここまでの議論が正しいとすれば、フッサールを継承したデリダのテーマとは、①「観念論、つまり理性の内在性=神学的な本有論」と、②「分析哲学や科学主義」をどのように脱構築するのか、という二元的対立の調停を目的とするものだった、ということになる。①の無いところで、そもそも調停は必要ない、というのが英米系哲学の(つまりサールの、あるいはフーコー以降の世代の)言い分だった。デリダが怒ったのは、サールに肩透かしを食らったからなのか? もしデリダの関心が、この大陸系の哲学に固有の問題系にあったとすれば、それを踏まえたうえでサールには別の回答があったのかもしれない。

『有限責任会社』の経緯
 実際にこのインタビューにはつぎのような興味深いサールの発言があり、事態は次第に核心に迫る。

『GF: デリダの『有限責任会社』にはどんないきさつがあったんでしょうか?
サール:彼がオースティンについて文章を書いてね.で,どっかの人がぼくのところに来て,その文章をみせてどう思いますかって訊いてきたんだ.で,そいつを読んで思うところを言ってみたら,「我々はこれから新しいジャーナルを立ち上げるんです.英米哲学と大陸哲学のコミュニケーションを推進するのが目的です.少しお考えを書いていただけないでしょうか? いまのお話を書いていただいて出版させていただけないでしょうか?」って言ってきた.べつに異存はなかったんだけど,自分がハメられてるのに気付いてなかった.罠だったんだよ.(“This was a trap.”(原典p.168))
 そのジャーナルの目的はあの手の脱構築のたわごとを称揚することで,連中はぼくをデリダの標的にしたかったんだ.彼らはそんなこと言わなかったけどね.それで,ぼくは9ページの文章を書いた.週末に書いたんだ.デリダの方は6ヶ月かけてこんな長大な反論を書いてきた.最初の20ページはぼくの名前の綴りをわざと間違って書いたりなんかして費やしてね.まともに取り合えやしないよ.こんなのは 本当の哲学の仕事じゃない.それが出版されてるんでびっくりだね.あのジャーナルはその後消えちゃった.
 デリダの最初の文章はこのGlyphってジャーナルの第1号にぼくの反論といっしょに載った.で,6ヶ月くらいあとに,ぼくには一言もなしに,デリダのこんな長大なやつが出版されたんだ.タイプ原稿で100 枚以上ある.おそらくはぼくへの反論なんだろうけど,あほくさいと思ったね.反論に値するとは思わなかったから, 反論はしなかった.その後,びっくりしたんだけど,デリダはこれをもとに本をつくろうとしたんだ.本にするほどのしろものとは思わないね.本にするほどの知的内容はないよ.でも,パリで出版された.たしかアメリカでも翻訳がでたんじゃないかな.』

誤配としての応答:サールからデリダへ
 それでは、サールはデリダにどのように応えれば良かったのであろうか。実はデリダはオースティンを良く理解しており「わざと訳の分からない冒頭の90%」を除けば言っていることは適切である。『有限責任会社』の「署名、出来事、コンテキスト」を(虚心坦懐に)読めばデリダはオースティンの言語哲学を高く評価していたことが分かる。なぜならば、オースティンの発話行為論(Speech Act Theory、言語行為論とも)は、「宣言」(という「声」=パロール)の一義的重要性と、それがたとえば法律の文書=エクリチュールとなった後でも、何故そのオリジナルの義務論的権力を維持するのか、という議論になっているからである。つまりオースティンの発話行為論はデリダの議論を通じて、『英米哲学と大陸哲学のコミュニケーションを推進』することが可能だったのではないか。したがって以下のようなサールの仮想的な応答(response)を考えることができる。

『親愛なるデリダ先生
 私の師であるオースティンの理論にご関心をお持ち戴きありがとうございます。おそらく発話行為理論の持つエクリチュールの現前性という観点が先生のご関心を引いたものと思います。
 ご拝察の通り、発話行為は宣言の持つ声と、その背後にある宣言者の理性や理念に結び付いており、これが宣言の持つ権力的地位を保証しています。『この船をエリザベス2世号と命名する』という発話行為は、それが商船名簿というエクリチュールになっても、内心の声の再現であり続ける訳です。制度的な保障が無い場合にも、この構図は「署名」という「発言源」の明示によって担保される、という先生の立論はその通りと思います。この構図は聖書と同じです。つまり聖書とは使徒によって聖なる署名を得たエクリチュールであり、また神の理性をあらわしているからです。
 そればかりではありません。発話行為はその宣言が成される以前の物自体に拘束されることのない新たな社会的事実を作り出す、という意味で脱構築すなわち先験的理性と自由意志の二元的対立を脱構築している訳です。しかしここには大きな危険が伴います。それは誤読、寄生、すべての差延の持つ予想を超えた効果であり、このリスクは超越論的な理性を踏み越えようとする人間の活動すべてに伴うものです。第二次世界大戦の惨禍とドイツのファシズムをわれわれは2度と繰り返してはなりません。しかしわれわれは連合軍としてこれを打ち破りました。
 また会議でご一緒するのを楽しみにしております。
                             敬愛をもって ジョン・サール』

まぁ、これで話が終わってしまっては歴史に残る論争にはならない。両先生とも分かってやっていたのだ、ということにしようではないか。しかしデリダは、じつはここに、つまり発話行為理論の持つエクリチュールの現前性という観点に注目して貰いたかったのではないか、という疑問は残る。この場合、大陸哲学と英米系の哲学の対話の道は本当に拓けたのであろうか。

さて、まず何よりも西欧哲学の神学的背景に踏み込むという、この理解の仕方は正しいのだろうか。しかしその場合、英米哲学者と大陸哲学者は宗教対立を超えて折り合うことが出来るのだろうか。サールもデリダも、このような仮想的なやりとりをすることには何の困難もなかったはずである。しかしフランス人はいったいなぜ、ここまでの大仕掛けをもってサールを罠に嵌めたかったのか? なぜ、サール先生はあくまでしらを切ったのか。あるいはサール先生は別のことで恨まれていたとか。(女絡みか?)しかし熟議を通したコミュニケーションはつねに可能である。それがどれだけ差延しようとも。