「「競争」は正しいのか」(2004年11月1日)

公文俊平

談合の悪いところは、それが発注者である国や自治体の、ひいては国民や住民の利益に反する結果をもたらす「反競争的行為」だという点にあるといわれる。しかし、「競争」とはどのような行為なのだろうか?

「「競争」は正しいのか」『神奈川新聞』(2004年11月1日)

談合の弊害は久しく指摘されてきたが、一向になくならない。つい最近も新潟市の「官製談合」に捜査の手がはいり、市の幹部が逮捕される事件が起きた。
談合の悪いところは、それが発注者である国や自治体の、ひいては国民や住民の利益に反する結果をもたらす「反競争的行為」だという点にあるといわれる。

しかし、「競争」とはどのような行為なのだろう。昔読んだ『二重らせん』という本には、英国と米国では競争に関する考え方が大きく異なるという話があった。英国では、競争は異なる分野の間で行なわれるべきものとされている。だから学者も、だれかがたとえばDNAの構造を研究し始めたら、他の人はその分野には入っていかない。米国の場合は、分野は同じであってもよく、競争は、用いる手法の間で行なわれる。同じ問題を違うやり方で解こうとするのが、米国流の競争だというわけだ。

では、日本の場合はどうか。日本は、分野も手法も同じであって、初めて競争が意味をもつと考えられがちだ。そこでの達成規準は、同じことをやって他人よりも一歩先んじられるか、もっといえば他人に遅れをとらずにすむか、という点におかれる。同じやり方で作った同じ製品の安売り競争は、その典型的なものとなる。

このような「日本型」の競争は、参加者の数が多くなく、市場が急激に拡大している場合には好結果をもたらす。「行け行けどんどん」状態になるわけだ。しかし、市場が成熟してきて供給過剰になってくると、いわゆる「過当競争」が発生し、共倒れの恐れがでてくる。本当に共倒れが起こると、その被害は当の企業だけでなく、その直接間接の顧客(消費者、発注者、国民など)にもおよぶだろう。

それを避けるための工夫が、「競争」よりは「共働」を模索することである。談合はその(悪い)例だし、公的支援や国有化は(善悪両面をもつ)もう一つの例だろう。さらに別の例としては協同組合型の、顧客との共働の試みがあげられる。より最近の注目すべき試みとしては、今年「地域情報化大賞」を受賞した「鹿児島建設市場」のような、地域の施主、工務店、建材店が住宅建築の共通プラットフォーム上で情報を公開しつつ互いに連携して、設計や建材の受発注、現場の施工管理や建材の配送管理を行なうことで建設コストを引き下げ、住宅過剰時代に対応していこうとするものがある。これは明らかに良い例である。

ところで、先に競争の形には国別の違いがあるといったが、それはあくまでも一般論で、外国にも過当競争の例はいくらでもある。数年前の米国での光ファイバーの敷設競争や、ヨーロッパでの第三世代携帯電話用の周波数の獲得競争などは、その典型だった。

共倒れのおこりかねない状況で、ただ「競争」を叫び続けることはどこまで適切だろうか。むしろ、関係者全員が益することのできるような「共働」の仕組みを工夫していくとろに、多年の宿痾からの突破口を求めるのがよくはないか。