「21世紀は「共発的近代化」の時代 経済活動も競争より共働が軸に」(2005年2月2日)

公文俊平

米中の軍事的対立はあるか

今にして思うと、二十世紀の四分の三を占めた「長い戦争(ロング・ウォー)」は、「創発的近代」と「開発的近代」の戦いだったといえそうだ。つまり、民主主義と市場経済を主柱とする文明を創発させた近代化の先発国に対して、それをモデルとしつつも異なるイデオロギーを掲げて近代文明を意図的に開発しようとした後発国が、成功の余勢を駈って、先発国に軍事的あるいは経済的に挑戦した時代が、二十世紀だったのだ。

「21世紀は「共発的近代化」の時代 経済活動も競争より共働が軸に」『産経新聞/正論』(2005年2月2日)

最初の挑戦は、その前半に、第一世代の開発主義国に属するドイツや日本によって、熱い戦争の形で行われた。二度目の挑戦は、その後半に、第二世代の開発主義国に属するソ連によって、冷戦の形で行われた。
これらの挑戦はともに失敗に終わり、ドイツと日本は、アメリカの支援の下に、経済開発を優先する路線に切り換えた。新生ロシアも同様な路線を歩み始めた。これらの諸国が他の先発国に軍事的に挑戦する可能性は、ほぼなくなったのである。
二十一世紀前半の世界には、二つの顕著な特徴がみられる。その第一は、第三世代の開発主義国にあたる中国、インド、ブラジル等の台頭である。その第二は、自力では開発が困難だが近代化は推進したがっている諸国が、国連加盟国の圧倒的多数を占めていることである。
第三世代の開発主義国は、今後何十年にもわたって、近代化の道を驀進し続けるだろう。しかしその結果として、これらの諸国が先発国に軍事的に挑戦することはありうるだろうか。ペンタゴンの中には、とりわけ中国がかつてのソ連に代わる軍事大国となって米国に挑戦する未来に備えたがっている旧思考の持ち主も少なくないという。

自力困難な国をどうする

しかし、トム・バーネット(『戦争はなぜ必要か』)に代表される新思考派は、第三世代の諸国はすでに、近代化の先発国が構成している「機能的コア」の不可欠のメンバーとなっていて、そこでは戦争は過去のものとなったと主張している。私もその見方に賛成である。日本の軍事大国化は杞憂以外のなにものでもないが、中国との大規模な軍事的対決に対する懸念や備えも、現実的とは思えない。中国の内部にも見解の相違はあろうが、中国は、基本的には経済大国、いや情報大国への道を歩もうとするのではないか。
バーネットも指摘するように、今日の世界の主要な軍事的紛争は、コアの外部で、あるいは外部との間に起こる。つまり、近代化に失敗した、あるいは近代化を拒否する、地域や勢力が軍事的紛争の源泉となっているのである。
そうだとすれば、われわれはこの事態にどのように対処すべきだろうか。
最大の優先順位は、コアの外部の国々の近代化の、つまり国家形成(とりわけ治安維持と安全保障)、経済成長(とりわけ雇用機会の確保)および情報化(とりわけデジタル・デバイドの解消)の、支援に置かれるべきであり、コアの諸国はそのための共働や業務分担の体制(レジーム)を構築していかなくてはならない。それは言ってみれば、自力での「開発」が困難な地域での近代化を「共発」するためのレジーム作りである。二十世紀が「開発主義」の時代だったとすれば、二十一世紀は「共発主義」の時代になる。そこでは、経済活動も競争よりは共働を軸として展開されるようになりそうだ。

完璧ならずとも恐れるな

開発主義の出現がすでに十九世紀後半のドイツや日本にみられていたように、共発主義の出現も、二十世紀後半の米国による日独やロシアの支援に、あるいは国連が主導したいわゆる「開発援助」レジームの構築に、すでにみられた。いや、さらにいえば、二十世紀前半の日本が行った五族協和型の満州国建設の支援は、さまざまな汚点を残しながらも、共発的近代化の最初の試みだったのではないか。韓国系中国人の比較文学者、金文学の痛烈な評論(『「反日」に狂う中国「友好」とおもねる日本』)は、そのような歴史解釈の可能性を示唆しているように、私には見える。
米国が現在イラクで進めている民主国家建設支援の試みも、同様な文脈から解釈できる。日本が戦後初めて自衛隊を海外派遣してそれに協力することにしたのも、まさに歴史的な決断だったと言えよう。
言うまでもないが、限りある人知をもってしては、共発的近代化の完璧な推進など不可能であって、数々の瑕疵を伴うことは避けがたい。しかし、栄光はもともと汚辱と背中合わせにしかえられないものではないのか。