社会思想の古生物学アナロジーについて:あるいはアナロジーという思考方法

山内康英

はじめに

研究者は、社会科学と自然科学のあいだにいくつものアナロジーを設定してきました。たとえば、均衡に関する競争市場と熱力学、自然選択に基づく社会進化と生物進化、ゲーム理論の進化的アルゴリズム、あるいは端的に社会の有機体説などです。われわれの研究所の先達である村上先生の開発主義経済学の背景にも、特定の社会に生まれた経済モデルが、全般的な社会環境のなかで独自の発展をする、という生物学のアナロジーがありました。

情報社会学では、複雑系やオートポイエーシスに替わる社会システムのモデルが検討課題になっています。しかしまた科学の領域をまたぐアナロジーやモデルの構築には特有の困難があるようです。世界システムと社会思想を検討するなかで、「思想史の古生物学アナロジー(paleontological analogy of social thoughts)」に思い至りました。

思想のモジュール=遺伝子

われわれは自由主義、社会主義、共産主義、民主主義、義務論、功利主義、コミュニタリアニズム、共和主義といった思想のモジュールの組み合わせによって、諸党派が自らの思想状況を定義し、また政治闘争を行う様を見てきました。このような思想のモジュールは、現世の社会生物であるわれわれの観念を組み立てていますが、その起源は、ある特定の系統樹に属する、特定の社会的・時代的文脈で作られたものです。現生生物が「形態(body plan)」を、進化のなかで獲得した遺伝子のモジュールで組み立てているように、現在の社会思想は「社会体制(body plan)」を、近代および前近代の思想のモジュールによって組み立てているのです。このように思想のモジュールを遺伝子のモジュールと考えると、社会思想と古生物学の間にアナロジーが成り立つことになります。

「ヒトのなかの魚」再考

まず、最近の古生物学と遺伝子研究の結び付きについて、シュービンの名著『ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト』 を紹介します。19世紀から生物の胚の発生には、「個体発生は系統進化を繰り返す」という「ヘッケルの反復説」がありました。 反復説によれば、受精卵から幼体に至る胚発生で、その動物の進化を再現します。シュービンの主張は、この反復説を遺伝子解析によって実証するものだということができます。さまざまな生物種の胚の発生を、詳細に調べて相互に比較すれば、その中に進化の系統樹を再現できるはずです。胚発生が系統進化を再現するのは、共通の遺伝子モジュールが摺り合わせによって、相互の関係性を変えながら、最終的な体制を作るからだ、ということになります。

それではなぜ、古生物学が胚の発生と結び付くのでしょうか。古生物学者は、先カンブリア紀から現在のエコシステムに至る進化の系統樹を、化石資料によってトレースしようとしています。つまり現生生物の胚の発生の系統樹と、化石が再構成する進化の系統樹は一致するはずなのです。

実際に、胚発生の形態学に遺伝子解析を組み合わせる研究によって、異なる生物種間の胚発生の進化的連続性を明らかにする道が拓かれています。ここにおいて生物進化の共時性と通時性を統合する解釈が可能になる訳です。シュービンは、マウスの眼の発生に関わる遺伝子を使って、ショウジョウバエの任意の部位に眼を作り出す、あるいはマウスの手の遺伝子を使ってエイの体側に手を作り出す、という神をも恐れぬ生物実験を紹介しています。これは哺乳類と無脊椎動物が、眼や手の発生について共通する遺伝子モジュールを使っており、その遺伝子モジュールは、ほ乳類と無脊椎動物が分岐する以前の動物が獲得したものであることを示しています。

実際、眼の発生はカンブリア期に遡ります。 『ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト』によれば、著者の研究室では、以下のように化石の収集・分析と遺伝子工学的な胚発生の研究を並行して進めているとのことです。

『この動物(=魚類と両生類の間をつなぐティクターリク)が陸生動物と共有する特徴は、ほとんどそのどれをとっても、非常に原始的な形質に見える。たとえば、この魚の上「腕」骨(humerus)の形状やさまざまな隆起は、一部が魚で一部が両生類のように見える。同じことは頭骨と肩の形状についても言える。発見するまで6年かかったが、この化石は、古生物学上の予測を裏付けるものだった。二つの異なった種類の動物の中間型を示す新しい魚だというだけでなく、地球の歴史におけるまさにぴったりの時代に、まさにぴったりの太古の環境で、それが発見されたのだ。この、古生物学上の疑義に対する答とも言える化石は、太古の河川で形成された3億7500万年前の地層から得られたのだ。』

社会思想の古生物学アナロジー

さて、ここからが本題です。世界システムと社会思想の研究は、生物学よりも古生物学に似ているのです。ある思想は、特定の系統樹の通時的な産物であり、同時に共時的な組合せの時間的な累積です。そして社会思想は自然選択を受けながら次の世代に継承されます。思い起こせば、この小稿の執筆者は中学生時代、化石採取に夢中になり、毎週末、ハンマーを片手に東京近郊の露頭に出掛けていたのですから類推という業は深いものです。ある時代の思想状況は、(1)思想の系統樹の通時的な変化を共時的に切り取った生物相(fauna)として現れます。また、古生物学の法則と同じように、(2)より新しい思想が、それ以前の時代の思想の地層から発見されることはありません。シュービンが魚と両生類の中間型となる化石を北極圏──彼は古地理学の文献を渉猟してデボン紀中期に大規模な河川と沼沢が存在した場所、つまり現在のグリーンランドで化石調査を始めました──で見つけたように、特定の思想を取り上げれば、その思想を生み出した思想家、もしくは思想家のグループの地理的な場所と時代について、ピンポイントで予想が出来るはずです。 これを社会科学の方法論に当てはめれば、(いわゆる)「歴史主義」の(やや歪んだ)正当化だ、ということになるでしょう。

以上から、近代の社会思想と古生物学のアナロジーの根本的な共通性を、つぎのように述べることができます。つまり、ここで言う社会情報と生物遺伝子が、ともに形態=体制図(body plan)をつかさどる情報であって、形態と環境との相互作用のなかで、(1)強固な継続性もしくは累積性をもって変化している、ということ、および(2)この経緯がグローバルな一回性を持つ、という二つの共通性です。

古生物学との類比をさらに明確にすれば次のようになります。シュービンの研究グループは、個々の遺伝子について系統樹的な連続の重要性を示しました。人間の歯をつかさどる遺伝子は、古生代の無顎類(コノドント化石)がヒドロキシアパタイトを作り出した遺伝子に起源を持つと言われています。この仮説が正しければ、人間は古生代の無顎類の遺伝子を体内にもち、この遺伝子を使って歯を発生させていることになります。したがって政治哲学の分野で共和政をローマに遡って考えるのは自然だ、ということになるでしょう。同様に、哺乳類の内耳の3つの骨のうちの2つは、サメのような原始的な魚類の下顎骨に起源を持っています。したがって重商主義や市場経済について17世紀の英国経済史に遡って考えるのは正当化される、ということになる訳です。

異なる生物が進化の途中で獲得した、さまざまな遺伝子的モジュールを、個体発生のなかで擦り合わせながら組み立てることによって、人間は自分のからだを作り出しています。なにしろ人間の遺伝子の50%は海綿と同じなのです。これは発生の反復説を越えた革新的な生物観です。われわれを悩ます疾病の多くが、発生的なやりくりのなかで、本来の目的とは異なる機能を担うことになった遺伝的モジュールの起源によって説明されます。社会が古い制度の継続性によって時に苦しんでいるように、生物は遺伝子の継続性という無理や無駄を抱え込んでいるのです。

社会思想の連続性:原因と結果

以上を社会思想に当てはめれば、現世の社会生物であるわれわれの観念を組み立てているのは、実体的な意味で過去の思想のモジュールだ、ということになるでしょう。その起源を知るためには、思想の系統樹と社会的・時代的文脈を知る必要があります。そして、それは強固な連続性に拘束されているわけです。現生生物が形態(body plan)を、進化のなかで獲得した遺伝子のモジュールで組み立てているように、現在の社会思想は社会体制(body plan)を、社会選択に耐えた近代および前近代の思想のモジュールによって組み立てているのです。これが国民国家の制度的な連続性に他なりません。つまり、われわれは近代国家を運営する以上、それは16世紀から一貫した体制だ、と考えるべきなのです。しかしまた、思想のモジュールの組み合わせは、多元的な民主主義と資本主義、国家社会主義、社会主義的市場経済といった異なる組合せの体制を生み出します。現在の政治体制間の衝突の起源を探るためには、社会思想を基本情報のモジュールに分解して、その発生の起源を探るのが有効だ、ということになるでしょう。

それにしても異なる学術領域間のアナロジーというのは、なかなか難しいのです。根本的な同一性が根底になければ、安易なアナロジーは容易に破綻しますし、根本的な同一性の原理が明らかになっているのならば、論理の全体を演繹的に導出することが出来るのですから、そもそもアナロジーは不要です。

あるものと別のものが似ている、というのは、おおくの革新的な発想の端緒ですが、価値のある研究としてまとめるには、もう一段の論理的な深掘りと、歴史的な資料調査が不可欠です。これは社会科学でも自然科学でも変わりません。つまりアナロジーというのは本来、最終的に表には出ない思考過程なのです。それでも多くの人は、本稿のようにアナロジーを無遠慮に振り回します。まったく困ったことです。