「知の自由を高らかに掲げよ」(2004年10月30日)

公文俊平

今日の産業社会は、人びとに私的な利益の分散的な追求の権利を認めたところから生まれた。その結果は驚くべきものだった。人びとのミクロのアクティビズムが、マクロの望ましい社会秩序を「創発」させたのである。

”「知の自由を高らかに掲げよ」『産経新聞/正論』(2004年10月30日)”

今日の産業社会は、人びとに私的な利益の分散的な追求の権利を認めたところから生まれた。もっとも、利益のためならなにをしてもいいのではなく、殺しや盗みや賄賂は禁じ手とされ、自分のリスクで、自分の選んだ商品を生産して市場で交換する自由が、各人に与えられたのである。

その結果は驚くべきものだった。特別な計画・管理当局がなくても、人びとが必要とする財やサービスの需給のバランスがとれるようになった。しかも、経済活動全体の規模も時とともに成長していった。人びとのミクロのアクティビズムが、マクロの望ましい社会秩序を「創発」させたのである。

とはいえ、何事も良いことずくめとはいかなかった。需給のバランスと経済の成長は、ブームと不況が繰り返す景気変動の波にさらされた。富や所得の分配には著しい不平等がみられた。自由な市場は、めざましい成功をおさめた反面、さまざまな失敗をも生み出したのである。

そこから、人為的な手段、とりわけ政府の介入によって、より望ましい秩序を「創出」しようとする試み、つまり市場あるいは経済の「ガバナンス」の試みが、行なわれるようなった。産業化の先発国は、独占禁止、再分配、景気対策などの、さまざまな「規制主義」政策を導入した。後発国は、先発国の轍を踏まずにより望ましい成果をより急速に実現しようとする「開発主義」政策を導入した。

しかし、それもまた万全ではなかった。「社会主義」の失敗はいまさらいうまでもないにせよ、より自由主義的な政府といえども、豊かな社会の経済変動や分配の不平等、環境の破壊を「経済政策」によって消し去る力はないことが、今日ではますます明らかになっている。そればかりか、長期的な経済停滞や一部の産業での需給の構造的なアンバランスすら懸念されるようになってきた。

既存秩序の部分的な補正や改善よりも、抜本的な「構造改革」を求める声の背景には、そのような現状認識があるのだろう。だが、日々の「経済運営」にさえ所期の効果をあげられないでいるわれわれに、「構造改革」などできるものだろうか。目標のレベルを上げれば、問題は解決するものだろうか。

むしろ、いま必要なのは、産業化とは質的に異なる社会変化、すなわち情報化の到来に注目することだと思う。産業化を担ったのは「市民」と呼ばれた人びとだったが、情報化の担い手は「智民」と呼ぶのがいいだろう。

智民は、かつての市民と同様、分散的なアクティビズムを発揮する。市民アクティビズムの目的が利益あるいは富(一般的な取引力)の獲得にあったとすれば、智民のそれは、名声あるいは智(一般的な説得力)の獲得にある。

智民は、そのための手段として、知識や情報を「商品」として生産し交換するのではなく、「通識」として生産し通有する。商品交換の本質が財やサービスの所有権や使用権の交換にあるとすれば、通識通有の本質は知識や情報の自由でオープンな普及と利用にある。

それでは、智民のこの意味でのミクロなアクティビズムの社会的な正統性が広く承認されたとすれば、それはどのような社会的帰結をもたらすだろうか。ここでもやはり、市場での商品の自由な交換から創発してきたのと似たようなマクロ的な社会秩序が、「智場」での通識の自由な通有の中から創発してくるにちがいない。つまり、特別な計画・管理当局なしに、人びとが必要とする多種多様な知識や情報の需給のバランスがとれるようになるばかりか、人びとがもつ知識や情報の量的・質的な成長が急速に進むにちがいない。これこそが情報化の成果にほかならないのである。

もちろん、産業化の場合と同様、情報化にもその裏面が不可避的に付随するだろう。通識の通有は、熱狂的な流行とその鎮静の波にさらされると同時に、智の分配は富の分配以上に不平等になる可能性が高い。

だからといって、いまから「デジタル・デバイド」の害や、智場——とりわけその具象としてのインターネット——のガバナンスの必要を声高に唱えるのは、いささか性急にすぎるかもしれない。智民アクティビズムの発揮を抑え込もうとするにいたっては論外である。 むしろわれわれは、いまこそ「知のレセフェール(自由放任)」の旗を高らかに掲げるべきではないか。